思考のオーケストラ(縁起のレイヤーが結ぶ世界 その12)

思考は言語と言葉で構成されるから、言語の種類が沢山あるということは、それだけ思考の類型が沢山あるということを意味してる。

ひとつの物事や結論に対しても、それに到達するための様々なアプローチ方法があるし、解釈ひとつとっても実に色んな考え方が存在する。

同じ音階を鳴らすのに、弦楽器でも、管楽器でも、打楽器ででも表現できるけれど、「ド」なら「ド」で、同じ音階であっても使う楽器によってその音色は異なる。

思考も同じで、同じ概念や結論を示す思考であっても、そのアプローチ方法や表現は異なる。

だから、言語に代表される「思考の類型」は楽器に喩えることができる。

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同じ弦楽器でも、チェロもあればバイオリンもあるように、同じ言語であっても、方言や派生語があったりして、類型言語が沢山ある。

今の世界には千数百とか数千にも及ぶ言語の数があるといわれているから、地球には、それこそオーケストラのように様々な「思考の楽器」が揃ってる。

仮に、人々の思考を、音として聞くことができる人がいるとして、その人が地球の音に耳をすませたとしたら、実にバリエーション豊かな、様々な楽器の音色が聞こえてくるはず。

もしも、地球上にたった一つの言語しかなかったとしたら、意思疎通そのものは簡単になるかもしれないけれど、思考の楽器もひとつだけ。オーケストラにはなり得ない。

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相互理解と画一化は異なるもの。文化文明を画一化するということは、言語文化とそれに沿った思考という楽器を捨てて、単一の楽器だけにしようするのと変わらない。

いくら「新しい中世」の世界ではナショナリズムはいらないからといって、ナショナリズムを否定するのみならず、固有言語や固有文化をも否定したら、個々の楽器を葬り去ることになる。

自分の楽器だけを独奏をさせろといって、そうさせ続けるという意味でのナショナリズムは抑えるべきかもしれないけれど、楽器そのものまでも廃棄するのは行き過ぎ。オーケストラとして様々な音色を奏でることができなくなる損失のほうが遥かに大きいと思うから。

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