主体的に生きる(人間として生きるということ 最終回)



アンパンマンの主題歌である「アンパンマンのマーチ」の歌詞の冒頭。

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外部記憶とか、無意識システムが人格や意識をつくるという受動意識仮説では、人間の意識存在は生まれた環境や学習で全部決まってしまうことになる。

これは、人間というものを「なぜだか分からないけれど、偶然にこの世に投げ出されてしまった存在」とみていることと殆ど変わらない。哲学でいうところの実存主義にきわめて近い考え。

受動意識仮説では、アンパンマンの歌には答えられない。

何のために生まれて、何をして生きるのかという問いに答えられない事に対して、そんなのは嫌だと思うか否かが、この仮説に対する答えを分ける。

 生存するために生きるのか

 子孫を残すために生きるのか

 なにかを愛するために生きるのか

 自分や世界を悟るために生きるのか

どれを選ぶかで生き方は全然違ってくる。

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受動意識仮説の世界では、他のだれかの人生も自由に好き勝手に選んで生きることが可能になる。

でも、そんな生き方には人生に対する主体性はない。主体的にその経験をダウンロードすることを選んだ、ということもできるかもしれないけれど、少なくともそこには経験を通じて得るところの達成感や成長の喜びはない。

人間は、その心の思いと行動で、主体的に生きることができる。それによって神様のような人生を生きることもできれば、悪魔と見まごうばかりの人生を選ぶこともできる。

人間は自分の人生を主体的に生きてこそ、自分の人生に責任を持つことができる。

自分の人生を自分のものとして受け止めて、その人生を主体的に選び取って生きることが、人間として生きるということなのだ。

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