なぜかというと、思えば何でもできる身体能力と世の中のすべての知識を持っていることそのものが、人生の目的を見つけだすことを困難にさせるから。
思えば何でも適う世界に生きると、たぶん人は何もしなくなる。
もし肉体をなんらかの、たとえば、飲まず食わずで100年生きて活動できるような義体の体に置き換えて、すべての知識と経験を都度ダウンロードできたとしたら、最初のうちはいろいろとやったりするのかもしれないけれど、そのうちにきっと何もしなくなる。
やることなすことすべてが、既にダウンロードされた知識と経験の記憶で知っていることになるから、やってもやらなくても同じ。
寝たままでも世界を経験できるし、それすら、すでにダウンロードされた経験の追体験。まるで映画マトリックスのような世界。
だから、人は、不自由な環境や限定された能力の中で、その制約の中で、目的を持って生きるところに人生の意味があるように思える。
人は自分の人生を生きてゆく中で、自分の体験を直に経験して、自分の力で自分のものにしてゆくことができる。それによって、心をより深く、広く、柔軟にして、人格をも向上させてゆくことができる。
木の葉一枚落ちるのを知っているくらい、何でもかんでも知っているということは、それこそ神の領域の話なのだろうけれど、それを自分の力で自分のものとしていける場として世界が存在しているとさえ。
だから、脳の構造が結構あいまいで、肉体信号の影響をうけて自己を既定しているという事実は、肉体に精神が制御されているとみることもできるけれど、肉体を通して経験したものをきちんと固定化して、自分の心に刻んでゆくのに適した構造になっていると解釈することもできる。
心が肉体を統御するというのが旧来の霊肉二元論的解釈であったのに対して、近年の脳科学の研究から、肉体が心の在り方を規定するという考えが出てきた。
意思の流れる方向は前者が心から肉体方向で、後者が肉体から心の方向と互いに逆。双方は対立概念のようにもみえる。
だけど真実はたぶんどちらも正解。精神と肉体は相互に影響しあっている。双方向通信の関係。仏教でいうところの色身不二。
心の在り方は肉体に刻みこまれ、また逆に、肉体を通じて獲得した感覚は、心に影響をおよぼす。それは経験を自らのものとして心に固定化するため。肉体感覚を心に刻みつけることができるからこそ、心は経験から学ぶことができる。

この記事へのコメント
日比野
昔の人の教えが正しいというのは、当時いろいろな説が唱えられたけれど、時の流れの篩にかけられて、正しいものだけが残っていったのかもしれませんね。
お教えいただいた、SF小説は知りませんでした。メモリカード内に人格が閉じ込められる世界となると、肉体は乗り物程度の扱いですね。必要に応じて、同一人格が別の肉体に乗り換えていく、というのは、攻殻2でもありましたね。(素子の場合は肉体ではなくてデコットでしたが) フランスの顔面移植のお話、これも知りませんでしたが、興味深いお話ですね。「40過ぎたら、自分の顔に責任を持て」とは昔からよく言われることですが、精神の影響が肉体に反映されると解釈することも可能ですが、逆はどうなんでしょうね。
ろし
>正しいものだけが残っていった
そういえば、そうですね。トンデモ説は廃れるでしょうね。
> 精神の影響が肉体に反映されると解釈することも可能です
「プラシーボ効果」などがあるように、精神が肉体に影響を及ぼすこともありえるでしょうね。キリスト教徒の「聖痕現象」などもそういう一種かもしれないですね