心を持つロボット(人間として生きるということ その7)

無意識化の演算が意思決定の主体であれば、その無意識で演算する機械のシステムを作って、他の適当な外部入出力装置と接続すればいいという考えも成り立つ。それも心を持つロボットだ、と言えなくもない。

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たとえば、ある人物の「意味記憶」と「エピソード記憶」がすべて入力された外部メモリと、無意識化の演算システムを接続すれば、そのシステムの反応や意思はその人物と同じになるはず。

だから、様々な人物の「意味記憶」と「エピソード記憶」をパックにして丸ごとサーバかどこかに置いておいて、必要に応じてロボットにダウンロードしてやれば、その人物の機械的なクローンがいくらでも作れることになる。

もっといえば、複数の人物の「意味記憶」と「エピソード記憶」を適当にブレンドしてダウンロードしたら、「オリジナルな疑似人格」の意識を作ることだって出来るかもしれない。

そんな世界では、身体的な人間と機械の境界線のみならず、意識レベルでの自分が自分であるためのアイデンティティすら、どんどん希薄になってゆく。

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もしも、自分や他人の記憶がネット上にアップロードされたり、ダウンロードされたりして、それを他の人が自由自在に使えるようになったとしたら、人間の頭脳は好き勝手に何倍にも何十倍にもアップさせることができるようになる。

たとえば、学校の優等生の記憶をダウンロードしてテストで満点をとるとか、なにかの最先端の研究の途上で亡くなった博士の記憶をダウンロードして、研究を引き継ぐとか。理屈上はいくらでも可能。

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スポーツの世界ではよく「練習は裏切らない」と言う。これは修練を重ねて身に着けた技術は確実に自分のものとなるということを意味してる。

仮に、他人の記憶や経験を必要に応じて、自由自在にダウンロードして生きることができる世界があるとすると、そうした人は確かにその能力において優秀で、成功した人生をおくるかもしれない。

だけど、その人自身は、いったい何の人生を、誰の人生を生きているのかわからなくなってしまう。

そこにあるのは、ダウンロードだけしておけば、その裏切らないはずの練習すら必要なくなる世界。

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