意識の受動性(人間として生きるということ その6)

個人の人格、アイデンティティは文字どおり、自分か何者であるかを規定するものだから、その人がもつ固有の記憶が土台になっている。だから人格と記憶の関係は切っても切り離せないもの。

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[器・UTUWA&陶芸blog]より


心理学では記憶を、言語として表現できない「非宣言的記憶」と、言葉で表現できる「宣言的記憶」に分類する。言語化できない記憶とは、運動のスキルや思考の筋道など、経験することで定着する記憶のこと。

そして言語化できる記憶、宣言的記憶の部分は、海馬を使う記憶の部分で、それはさらに「意味記憶」と「エピソード記憶」に分けられる。

「意味記憶」は「日本の首都は東京である」といったような、客観的な知識の記憶。

「エピソード記憶」は「昨日、友人と買い物に出かけた。」といったような、その人の個人エピソードにまつわる主観的な思い出の記憶。

「みかん」や「食べ物」といった意味記憶を持つだけでも、単純な生命活動を行うことは可能だけれど、「これを食べたら、おなかが痛くなった」とか、「昨日はケーキを食べすぎたなぁ。」とかいった「エピソード記憶」がないと自己管理すらできなくなる。ひいては複雑な状況に対応して種を存続させることもできなくなってしまう。

だから個人のアイデンティティや人格にかかわる記憶は、主に「エピソード記憶」に依るところが大きい。自分の体験や感覚こそがエピソードになってゆくから。

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慶應大学の前野隆司教授は、「受動意識仮説」にもとづいた従来とは違った心のモデルを考え、心を持つロボットは作れると提唱している。

「受動意識仮説」とは、従来、心の機能として捉えられていた「想起」や「知」、「情」、「意」のはたらきを「無意識」に従属する機能であると考え、無意識化で考えられたことの一部が表面意識に上ってきて、それを自分が意識していると勘違いしながら追体験しているとする説のこと。

ひらたくいえば、これまで意識と無意識をひっくるめて「心」と考えられていたものを、そうではなくて、無意識こそが「心」であって、意識はただの受信機だ、とする考え方。

しかも、その無意識下で考えたり、思いついたりすることさえ、脳内のニューロンネットワークで行われている膨大かつ「ランダムな」演算の結果であって、それらのほんの一部を表面意識が受け取っているにすぎないという。

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もちろん無意識化で、自律した「ランダムな」演算を行うためには、演算の項にあたる部分、「意味記憶」であるとか、「エピソード記憶」であるとかを、予め入力しておかないといけないのだけれど、逆にいえば、それさえ入れてやれば、無意識化の自律演算はできるということ。

この説が本当だとすれば、精神が肉体を制御するのではなくて、肉体が精神を統御する、つまり、外部入力によって精神作用は生成できることになる。もちろんロボットも心を持つことができる。

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