義手・義足・義体(人間として生きるということ その4)

ロボットと人間の差をアイデンティティ、心の有無という視点で考えてみたけれど、ではロボットと人間の中間的な存在ではどうなのかという疑問は当然あっておかしくない。

半ば概念上の存在だけれど、サイボーグに心があるかという問題がそれ。

サイボーグとは、人間の身体に人工臓器等を埋め込んだり、電子機器をはじめとした人工物に身体機能を代替させることで、身体機能の補助や強化を行った人間の事。

映画やアニメなんかに出てくるサイボーグは、手足からミサイルが出てきたり、足から火を吹いて空を飛んだりして、超人的な能力を発揮するけれど、しばしば自分は人間なのか、それともロボットなのかで悩む姿が描かれている。

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たとえば、サイボーグといっても、手足だけを機械に置き換えた場合を考えてみると、義手や義足の人と基本的になんら変わるところはない。だけど、一般社会では義手や義足の人をロボット扱いする人はいない。

では手足だけでなく、内蔵を人工臓器に、外皮や骨格までも機械に、いわゆる「義体」に置き換えてゆくとどうなるだろうか。脳からなにから100%機械に置き換えてしまうと、その存在はロボットと同じになるから、どこかで人間と機械の境目があるはず。

たとえアイデンティティの差がロボットと人間を分けるのだとしても、次にはそのアイデンティティを生むところの人間と機械の間の境界がどこにあるのか?またはないのか?という命題に突き当たる。

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この命題を考えるためには、心は何処に存在するのかということと、心も機械化できるのかという二つについて考えなくちゃいけない。

もしも心の存在場所が分かれば、そこを避けて義体化すれば、元の人間としてのアイデンティティは確保される。また心すら機械化できるのであれば、ドラえもんのような心を持った、アイデンティティを持ったロボットが作れることになる。

だけどそんな世界では、人間と機械の境界はどんどん曖昧になってゆくのは間違いない。


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