菩提と救済(思考と伝達について 最終回)

「上求菩提 下化衆生(じょうぐぼだい げけしゅじょう)」という言葉がある。

上に向かっては精進を積んで悟りを求め、下に向かっては衆生を救済せよという仏教用語。仏道修行者の心得。

考えることと、伝えることの関係の鍵はここにある。

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[Asagi's photo]より


考えること、上に向かって悟りを求める気持ちが強くなれば、思考はどんどん厳密になって、その表現も「正確さ・適切さ」を大切にしてゆくようになる。

逆に伝えること、より多くの人に伝えたい、救済したいという気持ちが強くなれば、思考概念の多少の減衰・変容には目をつぶってでも分かりやすさを求めるようになる。

わかりやすさを求めるあまり、「正確さ・適切さ」をおろそかにするのは哲学に対する裏切りだ、と考える人は、上に向かって悟りを求める気持ちが強いのだろうし、思想は相手に伝わらないと意味がないんだ、と思う人は、多くの人に物事の本質を伝える気持ちが強いのだろう。

だから、哲学的に思索を極めたい人は、思考に厳密さを求めて、思想を後世に残すし、現世に影響を与えて世の中を良くしていきたい人は、表現にわかりやすさを求めて、現世に広く伝えてゆく。

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だけど、たとえ厳密さを求めて、しっかりとした思想を残したとしても、その表現があまりにも難解であれば、後世の人が理解できないあまりに、いろんな解釈を行って、その思想が曲がってゆくことがある。

その一方で、わかり易さを求めて、思想を簡素化・単純化しすぎてしまうと、時代が下っていくにしたがって、思想の中身が失われ、後世の人々を救う力は失われてゆく。

哲学ってもともとは、この世のみならずあの世も含んだありとあらゆる事象がなんであって、何のために存在するのか、という世界の本質を知の働きを通して探究する学問だった。

ルネッサンスの画家ラフェエロによる有名な『アテナイの学堂』の中央にはプラトンとアリストテレスがいるけれど、プラトンは指を天に向けているのに対し、アリストテレスは手のひらで地を示している。哲学は天も地も探究の対象だった。

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本来の哲学は、天も地も、この世もあの世も知ることで、認識を高め、なぜ生きるのか、どう生きるべきなのか、と心にダイレクトに反映する学問であったはず。

とすると、その探究姿勢はやはり「上求菩提 下化衆生」であるべきなのだと思う。

難しいことだけれど、思想を練るにあたっては、どこまでも厳密に考え、表現するときにはどこまでも分かりやすくする。それが思想表現における「上求菩提 下化衆生」。

考えることと伝えることは表裏一体であって、思索において厳密、表現においてわかりやすさを求めるべき。それは自分の認識を限りなく悟りに近づけ、他の多くの人によき影響を与える救済の道。

考えることと伝えることとが、「上求菩提 下化衆生」によって結びついたとき、思想は最大の力を発揮する。

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思考と伝達について その1「知性と五感」
思考と伝達について その2「指向性と置換性」
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思考と伝達について その4「日本語は論理的か」
思考と伝達について その5「日本語の表現」
思考と伝達について その6「会話におけるキャラ設定」
思考と伝達について その7「概念の伝達」
思考と伝達について その8「ソムリエの表現能力」
思考と伝達について その9「哲学の文章」
思考と伝達について その10「たとえ話の利点と欠点」
思考と伝達について 最終回「菩提と救済」