さらには、しばしば省略される主語でさえも、使おうとすれば、同じ人称、特に一人称の表現が多様だから、それと語尾表現を少し使い分けるだけで、キャラ設定すらできてしまう。
[Asagi's photo]より
たとえば、ある人物の発言した意見にその他の人物が一様に賛同を示す場面を想定してみる。
「○○は△△だ」
1.「わたしもそうおもいます」
2.「おれもそうおもうぜ」
3.「あたしもそうおもーう」
4.「ぼくもそうおもう」
5.「あたいもそうおもうな」
6.「わてもそうおもうで」
7.「わたくしもそうおもいますことよ」
8.「わしもそうおもう」
9.「わいもそうおもうでごわす」
10.「おらもそうおもうだ」
これらを英語で書くと、全部I think so.になってしまう。実際の翻訳では、同じ意味で別の表現の単語に置き換えるのだけれど、日本語のような人称や語尾表現のバラエティさはない。
上記の例では、日本語で10通りの表現が可能。しかも、誰が男性女性で、どんな性格か、場合によっては、その人物の体つきまでイメージできてしまう。
だから、たとえば、ライトノベルかなんかで、まるまる台詞だけのページがあっても、人物設定と敬語表現だけで区別できてしまう。
なぜここまでキャラ設定できてしまうかというと、こういう言葉を使うのはこういう人だとか、こういう言葉を使うのはこういう時なのだ、というコンテクストが日本人の間で共通認識としてあるから。
上記の例でいくと、1,3,5,7は女性、2,4,6,8,9は男性だと分かる。しかも、1,2は主役キャラ、3はちょっと幼い感じ、4はクールでかっこいい系のキャラか少年だろうし、5は姉御肌のキャラで、6はちょいと軽いが抜け目のないタイプに感じるだろう。7はお嬢様系で、8は年配・じいさん。9は九州男児系のキャラで、10は東北の人。
こういった性格分けは多分にマンガやアニメの影響が大きいと思うのだけど、日本では暗黙の了解としてすっかり通用している。
日本語では、言葉の表現だけで人物キャラの設定が出来てしまう。だから、落語という芸が成立する。
もちろん噺家は、言葉表現だけではなくて、仕草や声色といった芸の力で人物描写や情景描写をしてゆくのだけれど、日本語のもつ同一の意味であっても多様なキャラを表現できる力が大きな要素を占めているといっていい。もし仕草だけで表現できるというのなら、それはもはや落語ではなくてパントマイム。ラジオでも落語が成立するのは、日本語表現の豊かさそのものを証明してる。
こういった、言葉のちょっとしたニュアンスだとか、動作に込められた暗黙の意味なんかは、文化・伝統として日本社会に流れていて、生きている間に自然と身につけられるもの。
ただ、それが逆にこういう言葉を使うときはこういう立ち振る舞いをしなければならない、という無言の圧力になることもある。
今ではそれほどでもなくなったけれど、最近までは、女性が男言葉を使ったりすると違和感を持たれていた。女らしい言葉遣いをしなさい、と。 いうなればコンテクストの呪縛。
半ば冗談だけれど、今はいなくなって廃れてしまった武家言葉を政治家・官僚が使うようになれば、彼らの意識も変わるのかもしれない。

この記事へのコメント
日比野
言霊と人格の関係はとても深いものがある、と私も感じています。たしか「ボク」という言葉は長州の志士たちの言葉からだった、とか何かで読んだ記憶があります。おそらくそのほかの言葉にも、おのずからそれぞれに歴史や想いがこめられていて、コンテクストを共有する人たちの間で同じイメージが想起されているのではないか、と考えたりもします。
美月(深森の帝國)
確たる証拠は無いのですが、言葉遣いとペルソナ(人格)との間には深い関連性が見られるそうです。もしかしたら、日本語の「言霊」の考え方も、先人がこうした言葉遣い/人格の関連性をそれなりに理解していた証しかも…と思いました。(言葉遣いについては、親に随分厳しくしつけられておりました。実際、昔の知り合いで、とても元気な女の子は自分のことを少年っぽく「ボク」と言っていましたし…)
伝達という面においても、ぶっきらぼうな言葉遣いでも惹かれるものがあったり、反対に合理的な内容・丁寧な言葉遣いでも心に響かない事があったり…など、日本語はむしろ、包括的&直観的な伝達を大切にしてきたと言えるかも知れません。今もそうなのかは分かりませんが…
最後の冗談は、もしかしたらおそろしく真実を衝いているかも…^^;(江戸時代も、士農工商で言葉遣いも仕草も全然別々だったそうです!)