いのちをいただくということ (捕鯨問題について考える 最終回)

捕鯨問題で環境保護団体は、鯨は賢い生き物だから、殺すのは可哀想だ、と言っている。そんな人でも普段の食事では、なにかを食べている。たとえベジタリアンであっても野菜は食べるはず。

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普段から野菜は平気に採って食べているけれど、もし野菜に感情があって、声を出せるとしたら料理なんかできなくなる。「やさいごろしー」と叫ぶニンジンに包丁は入れられない。

野菜の品種改良や遺伝子組み換えは気にもしない癖に、クローン羊やらなにやらには拒絶反応を示す人間。だから食料にするものの「生きている感」をどこまで感じるかによって、食べるということに対する感情は変わる。

すべてのものにいのちがあって、人間はそれを食べずには生きてゆけないから、全てを無駄なく感謝していただくのが日本人的感性。

いのちのあるなしに関わらず、食べられるために存在する動植物とそうでない動植物がいると線を引いて納得させてしまう欧米人。

だけど、人間が一切手をつけなくても、野菜や果物もいずれ腐って朽ちるし、動物も寿命がくれば死ぬ。人間だってそう。仮に遠い未来、人間がなにも食べなくても、なにかのカプセルさえ飲めば、それで十分生きていけるような世の中になったと想像してみても、やっぱり、牛や鶏や鯨はいて、野菜や果物は豊かな実りをつけ続ける。

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たとえ、動植物が人間に飼われて繁殖したとしても、自然の摂理の中で生きていったとしても、食物連鎖そのものが止むことはない。

これまでも人間が自然環境を破壊して絶滅にまで追い込んだ種は沢山いる。

どんな命も一族の繁栄を願うもの。繁栄とは持続する発展。いかなる環境においても生き残る種のいとなみ。

なにかの種を保護して、その影響で別の種が滅びてしまったとき、それは是とされるのか。

間引きを全くしないで、特定種が増えすぎて、他の種の生存域がなくなっていったとき、それも是とされるのか。

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ひとつひとつの種のいのちを人間がいただくとき、食べられる等の食材自体は悲しみにくれているかもしれない。だけど一族の一部が他の種の食料としてが饗されることで、逆に自然界のトータルバランスをとって一族の繁栄を保障している面もあることは事実。

食物連鎖の頂点にいる人間だって、自ら食べる食料供給の許す範囲でしか生存できない。

間引きという考えも、自然を管理するという考えも、それが許容される条件は、自然界全体のバランスをとって、おのおのの動植物がなるべく長く一族の繁栄を続けられるように配慮しているときなのだろうと思う。

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