いのちの序列 (捕鯨問題について考える その9)

エコロジー神学からスチュワードシップという考えが生まれてきたけれど、この考えであっても日本人の自然観とはまだ対立する部分がある。

支配だとか、管理だとか言ったところで、人が動物を支配・管理または保護して「あげる」という考え方が根底にあるのは変わりない。

人が動植物を管理するということは、しっかり管理すべきものと、適当でいいものとを人間が勝手に決めている、ということを意味してる。言い換えれば、動植物の種に「序列」をつけている。

この考え方からいけば、人間が食べていい「動植物」と食べてはいけない「動植物」がいて、それがどれなのかを人間が決めていいことにもなる。

だから、牛や鶏は食べても良くて、鯨はダメというのは、根底にこのスチュワードシップの考えがあるのだと思う。

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こうした「いのちに序列をつける」という考え方は、決定的に日本人の価値観と対立を生む要素になりうる。

なぜかといえば、日本人こそが世界から表向きにせよ、人種差別をなくした原動力だったから。

第二次大戦をどうみるかというのはいろいろな見解があるけれど、その後の結果を見る限り、少なくとも植民地支配は悪であったという認識と人種平等の原則を世界基準にさせたということだけは言える。

日本は敗戦という代償を払ったけれど、100%の敗北というわけではなくて、思想レベルにおいて、人種差別撤廃というカウンターパンチを放っていた。

人種差別って、人種間で序列をつけることと同じ。動植物の命に序列をつけたように人種にも序列をつけていたのを、日本が第二次大戦を通じて、その序列を無くさせた。それまでの欧米の価値観からみれば、痛恨の思想的敗北。

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だから、捕鯨問題も、人種間には序列はないかもしれないけれど、動物にはやっぱり序列があるんだ、とする欧米の価値観の反撃にみえなくもない。

彼らがおそらく持っているであろう、神>人>動植物の序列があると信じたい心理。もし、日本的自然観を受け入れて、人=動植物という価値観にまでなると、更に思想的敗北を喫することになる。

もしも本当に、彼らにこういう深層心理が働いていたとしたら、例のYOUTUBE動画は物凄く痛いところを抉り出したといえる。

表向きは人種平等・自然保護を謳っているのに、内心はいのちに序列をつけていることを炙り出したから。

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