日本的共生の思想 (捕鯨問題について考える その8)

山川草木みな仏性有り。悉皆成仏、悉有仏性。日本人はすべてのものに「いのち」を見出していた。

日本人的感性では、他の動植物を食べるということは「いのち」をいただくのと同じ。

歴史的に、日本人の殺生は生態系を壊さない範囲の「間引き」という考えが中心。採れた作物、獲った獲物は感謝していただくし、時には彼らのために供養すらする。日本各地にある鯨神社なんかはその一例。

そこには、自然を管理しようという考えは見られない。これをもって日本的共生の思想だ、ということもできるかもしれないけれど、単に管理しなくても沢山の自然の恵みがあったという面も忘れてはいけない。ほおっておいても魚は獲れるし、米も実る。別名「豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」

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中世ヨーロッパでの麦の収穫率(単位面積あたりの収穫量)は米の半分程度しかなかったし、収穫倍率(種籾に対する収穫量)でみても、麦はせいぜい3~4倍だった。それに対して、米の収穫倍率(種籾に対する収穫量)は10ぐらいあったといわれている。

これくらい自然の恵みに差があると、自然状態をみる見方が彼我で違っていても仕方がないのかもしれない。ヨーロッパでは生きるために自然と戦い、日本は生きるために自然を自然のままで留めおいた。

かといって、日本人は食において全く自然と闘わなかったというとそうでもない。米や野菜、果物の品種改良がそれ。寒冷地でも獲れる米、甘いイチゴ。それこそ品種改良は山のように行っている。

なぜ品種改良するようになったかといえば、人口が増えて、既存耕作地の作付面積では足りなくなったことと、もっとおいしいものを食べたくなったから。

品種改良といえば聞こえはいいけれど、動物に置き換えれば、キメラとか、改造動物とか強化生物を作るようなもの。日本人だって、食うに困ればやっぱり自然と闘う。

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ただ、日本とヨーロッパで自然に対する態度に違いがあるとすれば、多分その出発点の発想だと思う。ヨーロッパは「人間が」生きるため。日本は「作物が」よく生長するため。

ヨーロッパのように人間を出発点におけば、人間の都合の良いように自然を改造・管理しようとするのは理の当然。

だけど、日本のように、ほおっておいてもどんどん草木が生長するような国土では、それぞれの草木同士が互いに邪魔しあって、双方の生長が阻害されないように、適当に間引いて、交通整理してやるのが基本になる。手入れと剪定で十分の、ある意味自然に甘える考え方。

日本人の自然観では、自然は自然のままが一番。下手に弄らないほうがいい、という考えが根底にある。自然まかせが一番うまくいくと思ってる。

だから日本人からみると、なにかの保護動物が増えすぎて、他の動物が絶滅しそうだからといって、途端にその保護動物を間引きしたりするようなスチュワードシップは、とても「へたくそな管理人」にみえる。

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