■日本的価値観の構造

1.日本的価値観の構造

日本的価値観とは何かと問いかけてみたとき、「和の精神」であるとか、「武士道精神」であるとかいろいろな答えが返ってくるだろうけれど、これほど人によって同じ言葉にならない価値感覚も珍しい。日本的価値観ってなかなか一言で言い表せられない。

これについて考えてゆくうちに、日本の価値観も伝統的な日本建築と同じ構造を持っているのではないかと気づいた。

武家屋敷などの伝統的な建築物は建物の設計図が存在せず、必要に応じてどんどん建て増ししてゆく構造だという。価値観をひとつの建築物とみた場合、思想も同じく、必要に応じて、別の思想を建て増ししていった構造を持っているのではないだろうか。

日本的価値観という建物を建てる地面があって、まず古神道の部屋を作る。そのとなりに仏教の部屋を作り、更にそのとなりに儒教の部屋をつくり、さらに時代が下ると2階部分にその時代の思想の部屋を建て増ししてといった具合に、思想の上に思想をどんどんのっけていった構造をもつ価値観。

もしも思想の構造を視覚的にみえる人がいたならば、他国の思想は、円錐やら、直方体やらの統一された形状でみえるのに対し、日本のそれはおそらく、「ハウルの動く城」のような奇っ怪な、ごちゃごちゃの建て増し構造にみえるだろう。

それぞれ建て増しされた部屋の外観や中身は、和風であったり、中華風であったり、西欧風であったりして、まったく統一されていないが、ともかくもひとつには纏まっている。

外人からみればさぞかし不思議な思想構造に見えるにちがいない。

イビチャ・オシム日本代表監督はこう語っている。

「日本に感化され、同化したという意味ではない。それでは皆さんもつまらないし、私が監督をするメリットもない。ともに働きながら、日本人の面白さに感じ入った、ということです。何というか、日本のアンビバレントなポリバレント性に。民主主義を原則としながら天皇制があるみたいな。みんなを尊重するやり方といいますか」

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2.思想の建て増し構造の利点

思想の建て増し構造の利点は、おおきく二つある。ひとつは構造物の素材単位で取替えが利くということ。

伝統的な日本建築は、その構造から、建物の解体が比較的容易になっているから、たとえば、根太が腐るとそこだけ新しいものに取り替えできることができる。それと同じで、建て増し構造の価値観では、古くなって使えなくなった思想も、新しいものに置き換えることができる。

人間も新陳代謝で細胞がどんどん入れ替われるけど、細胞がどんなに変わっても、人としての存在がなくなるわけじゃない。だから、古い思想の一部を新しいものに置き換えても日本的価値観という建物そのものは変わらないという考えになる。

もうひとつの利点は、その時代時代にマッチした、新しい思想や有用な考えを大きな抵抗なく直ぐ取り込めること。新しい思想に対して、自分の建物の中から相性がよさそうな部屋を探して、その上に建て増しするだけ。その時々の最新思想をすぐに使える。

部分をいくら取り替えても、いくら建て増ししても、日本的価値観の建物自体がなくなる訳じゃないから、見た目がどんなに変わっても気にしない。

どうして思想の建て増しが可能なのかというと、日本神道に教義がないために、他の教えと抵触しないから。

異なる教え同士は衝突する。自分が正しいと、どちらも主張する者同士では衝突するのが普通。

でも建て増し構造であれば、他の思想は部屋として扱うから、思想はそのまま手付かずで保存される。互いに干渉しない。部屋同士はとりあえず廊下で繋いでおけばいい。無頓着といえば無頓着。

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3.近代民主国家における価値観構造

「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」

マルコ伝でも、ルカ伝でも取り上げられている有名なイエスの言葉。今では政教分離の話題でよく用いられる。

異なる価値観を持つ小集団の集まりを国民とする国家の統治原理を考えた場合、各集団がもつ個々の価値観を受容しつつ、なにか国家としての共通の価値基盤を持たせなくちゃいけない。

キリスト教は、宗教改革を通じて、聖と俗を分けることで対立を回避した。個人的な心の中の規範と、社会的規範を分離した。

個人の中の原理と社会の原理をわけることで、政教分離して、価値観に折り合いをつけて、「俗」の部分をフリーハンドにした。

価値観の構造でいえば、個々人がもつそれぞれの「聖」の部分の価値観の建物を、社会的「俗」の部分の価値観の塀でぐるりと囲んだようなもの。塀の中の個々の「聖」の建物はくっついているわけじゃない。

現在では、アメリカなんかが丁度当てはまる。価値観は建て増しじゃなくて、住み分け。

国政統治の原理としては、アメリカと日本もどちらも民主主義を奉じ、信教の自由を保障しているけれど、価値観の建物でみれば構造は異なる。日本のように個人がキリスト教徒でもあり、仏教徒でもあり、神道も奉じているなんてことは、一神教の世界ではありえない。原理同士がぶつかる。

衝突の度合いが酷いときは、どちらかの建物は取り壊されることになる。回避策としては、原理を適用するエリアをそれぞれに分けるしかなくなる。いきおい住み分け構造になる。

どんなに文化的受容がある国家でも思想や文化が入ってきた時点では、自分の土地に別個の価値観の建物が建つもの。

それを、別のものとして扱って塀で囲むのか、破壊して排除するのか、または「ハウルの動く城」のように建て増しして繋げてゆくのかという違いがある。

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4.カルシファーと防人

日本的価値観の建物が各種思想の建て増し構造を持っているとすると、建て増し思想の核の部分はあるのかないのかといった議論が起こってもおかしくない。

「ハウルの動く城」でのラストにそれを示唆するシーンがある。

最初、ハウルの城はいかつい巨大な城だったけれど、ラストには、床板に足が生えただけのものになる。この状態でもハウルの城といえるのかどうか。当初の巨大な城としての機能はもはや失われている。はっきりいって城じゃない。

これは丁度、建て増し構造型の価値観でいえば、各種思想がそぎ落とされて、殆どなくなった状態に等しい。このときに日本的価値観はなくなったとするかどうかという命題を提示してる。

しかし、日本人的感覚では、これでもまだハウルの城と思う。なぜかというと命が篭り、まだ動いているから。ハウルの城は外見の姿形ではなく、理念。命そのもの。それを具現化して象徴する存在が火の精霊カルシファー。

カルシファーはハウルの城の命を象徴し、映画では、ハウルの望みに応えて、城内を作り変えたり、ソフィーの部屋を作り出したりしている。カルシファーがいれば、いくらでも再生できる。

日本的価値観を問われて返ってくる様々な答えは、おそらく建て増しされたどこかの部屋を指して言っている。

建て増し構造そのものを指して「和の精神」ということもありえるけれど、構造が思想になるかどうかは微妙なところ。原理ではないから。

鍵を握るのはカルシファー。命の象徴。そして、その日本の命の火を燃やし続け、カルシファーが消えてしまわないように常に薪をくべ、見守りつづける防人が仕えている。天皇の存在がそれ。

天皇は歴史的には祭司。宮中祭祀を連綿と続け、保持することで、日本的精神、日本そのものの命の火を守ってる。だから、天皇家が絶えない限り、カルシファーは存在し続け、日本的思想のハウルの城は形を保つ。そう日本人は見てる。

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5.防人の役目

日本人は八百万の神々を直接見ることはできないけれど、天皇が存在し、毎年宮中祭司を行う姿をみることで、間接的にカルシファーが燃え続けていることを確認する。

それがまた、八百万の神々が常に私たち日本人と共にあると感じ、安心する。天皇を媒介として神と人とが繋がっている。この感覚は特筆すべきもの。

天皇制を廃止しようとかいう声もあるけれど、そうしたら日本は唯物論に傾いてゆくと思う。カルシファーの防人がいなくなることは、必然的に神と人との繋がりが消えてゆくことを意味する。八百万の神々が傍にいるとはだんだん感じられなくなって、享楽的・刹那的になってゆく。そうして唯物主義に堕する。日本人の美徳も消えることになる。

だから、万が一天皇制を廃止する場合は、その代わりになる、別のカルシファーの防人が必要になる。だけどその防人には、格式も礼式も資格も必要で、季節ごとの薪の種類の選び方や一度にくべる薪の本数をどうすべきかとか、火の勢いを調整したり、灰を適切に処置したりなど、一切のことができなくちゃいけない。

そのノウハウを持っているのが唯一天皇家であるであろう現状を考えると、天皇制の廃止は考えられないと思う。

同じく、女系天皇を容認するかについても、その対象者が、カルシファーの防人に必要な技能と資格を持っているかが条件になるけれど、現時点で該当者はたぶんいないだろう。


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6.人間理性と信仰の両立

たぶん日本人にとって、宗教思想は原理ではなく道具。教えとは、一なる神から別れ出でて、形となって、仮の姿としてこの世に顕れたものという位置づけ。だから、教えはいくらでも流転するし、時には教えの中身すら変わることがある。そんな感覚。

内なる神を尊崇する気持ちさえ忘れなければ、教えの形には拘らない。全てが一なる神から別れ出でた教えだから、好きなときに好きな教えに従えばいい。そういうおおらかさがある。

なぜそこまで柔軟になれるのかは、神と人との関係をどう考えるかに拠ると思う。

キリスト教やイスラム教での神は絶対者。人は逆立ちしても神にはなれない。ところが仏教は、修行の果てに仏になれると説くから、人が神にもなれるという立場。

日本神道も、実在の人物が、後世祭られて神様として扱われたりするから、仏教に近く人も神になるという立場だろう。

さらに踏み込んでみれば、自然も含めた動植物や人の存在全てが神の顕れのひとつであり、神の一部でもあるという思想といったほうがいいのかもしれない。仏教的にいえば、悉有仏性。すべての存在に仏性があるという考え。

日本的価値観、宗教観といってもいいけれど、日本の八百万の神々がいるとして、どうも人がどの教えを奉じて生きてゆくかについてさえも、人に任せている観があるように思えてならない。教えで人を縛らない。

だけど、人が全てを決めていく世界では、人を偉しとして、ともすれば神の存在を否定してゆくことだってある。

そのために、日本では神を敬うという祭司を行い、常に心から神を敬う気持ちを忘れないようにするという伝統を培ってきたのではないだろうか。

神を忘れないための作法として、自らの穢れを祓い、虚飾を去り、その身そのままの自らの仏性・神性をあらわにして、自らが仏神の一部であることを常に確認することが大切である。それを確認できたのなら、その自らの仏性・神性に従って生きてゆけ。こういう価値観ではないだろうか。

近代文明の原動力となった人間理性を否定することなく、神への信仰を両立させている。非常にバランスのとれた考えだと思う。

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7.宗教原理と時代性

知の性能の観点からみれば、古典や世界宗教の性能は大きい。指向性が全方位におよび、また賞味期限も非常に長いから。

知の専門性の奥行きという点では、厳密性や細分化という意味において、後世のほうが進んでいる場合もあるけれど、古典や宗教は人の心のあり方を説くから、基本的な思想の核の部分は、当時も今もあまり変わらない筈。

だけど、新しい宗教がおこるときは、その時代の、その場にいる人々を真っ先に救う教えであるから、彼らに一番必要な教えが説かれる。結果、将来的に世界宗教になる普遍性をもった教えであっても、教えの色合いは時代と地域に縛られる。

だから時代が下ると、教えに説かれていない事態に直面したり、教えそのものが時代に合わなくなってきたりする。教えそのものを曲げる訳にはいかないから、時の教皇や法王なんかが時代に適合するように、教えを解釈しなおしたり、新しい注釈を加えたりして、どうにかこうにか対応しようとする。

憲法改正できない日本が憲法解釈をどんどん進めて、自衛隊を海外派兵できるようにしたのと同じことをするしかなくなる。教祖がいない時代では、もはや勝手に教義を変更できない。

日本的価値観は建て増し型で取替えがきく構造だから、古い部屋は引き払って、時代にマッチした最新の部屋を住処にするだけ。憲法解釈の必要がない。これが逆に日本に原理主義が発生しない理由にもなっている。

王政復古だとか、日本的精神を、とかいっても、ただ建て増したどこかの部屋が汚れているから掃除しよう、とか、最近この部屋を使ってないから使おうよ、とか言ってるだけのこと。原理主義とは違う。もともと原理はない。命だけある。

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8.宗教や思想の耐用年数

思想の建て増し構造は時代に即応したフレッシュな思想をいつでも大きな抵抗なく使える利点がある。時代の流れが速くなればなるほど力を発揮する考え。

まるで日本神道というWINDOWSに最新の思想ソフトをインストールして起動するようなもの。

開国して、最新ソフトをダウンロードして、鎖国してネット回線を切断してソフトをインストールする。その繰り返し。

宗教思想が根本にある国では、宗教原理に縛られることがある。いきおい革命的な改革の妨げになることもある。

たとえば、ある国が世界と比べて後れてしまったとした時に、対策として取るであろう行動を考えてみる。

ひとつは、自分達の国が落ちぶれたのは、もともとの教えを忘れ、堕落したからだと考える方向。この場合は、本来の教えに戻ろうと原理主義になって、過去に遡ってゆく。時代に逆行する。

もうひとつは、宗教自体を否定してしまう方向。無神論にして、それを軸に国をつくれば、宗教思想に縛られる必要もなくなる。好き勝手できる。その結果、唯物主義にながれ、地球や他人をも平気で破壊してゆく危険を孕む。

それに対して、日本はもともと原理に縛られないから、落ちぶれたときには、勉強が足らなかったからだと考えて、他の思想を積極的に学んで、未来へ向かうことができる。

古い宗教が時代に合わせて自己改革ができなかったり、宗教原理の縛りから逃れられなかったりすると、どうしても時代についていけなくなるときがやってくる。いくら憲法解釈で逃げるといっても限度がある。

宗教の教義そのものの中に、「時代に合わせて教えを変えてもいいという教え」を入れておくことは出来ないのだろうか。

そうでもしない限り、宗教自身の耐用年数を超えたときには、原理主義への回帰が起こったり、宗教そのものの否定が起こったりして、時代の流れに沿った発展の阻害になったりする場合が起こり得る。

その意味では、日本の思想の建て増し型、教義が無いが故に形成できた日本神道のWINDOWS構造は非常に優れたもののように思える。

ただし、インストールソフトそのものに重大なバグがないことは大前提になる。

全てが一なる神から別れ出でたものという考えは、ソフトにバグなんかないという考えに流れてもおかしくない。

予め説明書を読んで、良し悪しを判断するわけじゃなくて、起動して初めてバグだったかどうかわかる。インストールするソフトの信頼性が大事になる。ここが日本的価値観の建て増し構造の弱点。

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9.日本の建築文化の思想への展開

宗教に教義という原理がある以上、異なる教え同士がぶつかるのは必然。ぶつからないのはそれぞれの教えで共通の教えの部分だけ。

たとえば、イエスの「自分のして欲しいことを他人に施しなさい」と 孔子の「己の欲せざる所、人に施すこと勿れ」とか、釈迦の戒「不偸盗戒、不邪淫戒」とモーセの戒「姦淫をしてはいけないこと、盗んではいけないこと」 とか。

違う教えであっても、部分でみたら同じ教えもあるから、そこだけなら相互理解は可能になる。

日本は本地垂迹説を採用し、神様レベルで存在ごと同じにしてしまったけれど、いまや他国では通用しにくい考えになってしまった。コーランには、キリスト教の天使が出てくるけれど、それでも周知のとおり衝突している。

これは一神教の限界なのかもしれない。だとすれば、本地垂迹も教えの各パーツレベルでしかする方法がない。

これはとりも直さず、構造を素材ごとに分解してまた組みなおす試みになる。

東京大学の坂本功教授は、

 「建築物を解体して再利用するという発想は、西洋人にはない文化であり、これまでなかなか理解されることがなかったのです。ここにきてやっと、建築関係の国際会議で、建物の姿形が一度まったく失われて、素材レベルになったものを再度組み立て直しても、オリジナルであるとする日本の建築文化が認められるようになりました。」

と述べている。

建て増し型の思想構造がとれない世界では、思想の衝突を避け、相互理解をすすめるためには、各世界宗教や思想の構造を一旦素材レベルに分解して、それぞれで同じパーツだった部分を確認した上で、再度建築物を構築する試みが必要ではないだろうか?

そこまでして始めて、各宗教の教えの一部が時代に合わなくなった部分に対して、そこだけ新しいものに入れ替えるという考えが許容されるように思う。

国連では、スペインとトルコが主導の下、2005年からさまざまな宗教、文化、国家の間の和解を促進することを目的にして、「文明の同盟プロジェクト」がスタートしている。

イスタンブールで、その「文明の同盟」報告書発表の際に行われたスピーチでアナン前国連事務総長はこう述べた。

「まず第一に、問題がコーランやトーラー、聖書にあるわけではないことを再確認し、論証することから始めなければなりません。問題は信仰にあるのではなく、信者たちのうちにあるのです。ある宗教の信者たちが、別の宗教の信者たちに対してとる態度のうちにあるのです。我々はすべての宗教に共通する基本的な価値観、つまり思いやり、連帯心、人格の尊重、「人からして欲しいと思うことを人になせ」という大原則を強調すべきです。」

衝突する思想の解消には、この素材からの再構築しかないのかもしれない。

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10.「聖」も「俗」も一体化している日本的価値観

日本人は無宗教とよくいわれるけれど、日本人の場合は無宗教は無信仰とイコールじゃない。

無宗教だから無信仰と考えるのは西欧の価値観でみているから。彼らは、その国家の社会的価値観と国民の個人的信仰の部分の価値観は全く別のものでそれぞれ不可侵と考える。

だから、個人的価値観の源となる宗教に属するのは当たり前になる。無宗教の人は個人的価値観を持たない存在、下手したら人間でないと思われかねない。

日本の価値観の建て増し構造は、「聖」も「俗」も繋がって一体化してる。日本の社会的価値観と国民の個人的信仰の部分の価値観は別個の存在じゃない。

だから、日本人であることが、そのまま「聖」の部分である個人的信仰の価値観の保持になってしまう。

国家の社会的価値観と個人的信仰の部分が分離されていないという意味では、イスラム社会に似ているけれど、イスラム社会は、原理が規定され、それが憲法であり、個人の行動規定でもあるから、時代に即応した新しい思想を自由にインストールして直ぐに使えるわけじゃない。

それに対して、日本の価値観の構造は、輸入された各種思想のエッセンスを網羅し、かつ原理に縛られずに未来にむかって成長できる価値観構造を持っている。

つまり日本人は無宗教なのではなくて、わざわざ特定の宗派に所属する必要がない。日本人であれば、それがそのまま信仰になる。そういう価値観を無意識下で持っている。

だから、クリスマスを祝って、初詣して、仏式葬儀ができる。時に日本教と呼ばれる所以。

国連が始めた「文明の同盟」プロジェクトは、日本では2000年前からすでにスタートしていたといえるのかもしれない。

(了)

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