1.都市化と日本人の美意識
日本人の美意識の中にある、あるがままが美しいという感覚が現代都市と両立するかどうかについて考えてみたい。
西欧の美の源流としてギリシャまで遡れば、存在そのものに美を内包するという立場と、存在を認識している人が美の価値を認めているという立場があるけれど、そもそも美の概念の対象そのものは広範で、定義そのものが難しい。
ここでは、都市化と日本人の美意識の両立というテーマで、自然美と造形美に絞って考えてみることにする。
自然美は自然の手付かずの美、自然による造形のこと。造形美は建築構造物の美。
そこで都市化というのを、
「自然美を一部壊して、造形美に置き換える変化」
と定義してみる。
西欧の建築物にみられる造形美は一般にシンメトリーの美。対象性。美しい形の多くは対称性という性質を持っているものがほとんどだという。
西欧での造形美とは、形として美しいものという認識。理性に働きかける美。それに対して、日本の美は崩れていても美しさを感じることがある。非対称の中にも美を見出してる。
スタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーは2004年5月に読売新聞のインタビューに際し、こんなコメントを残している。
鈴木 堀田さんと生涯に渡って交流があった評論家の加藤周一さんが、日本人の気質は“イマ・ココ”なんだと言っています。
それは、ヨーロッパ人が観念的・体系的・理性的であるのに対し、日本人が具体的・非体系的・感覚的であるためだと。
端的な例が建物で、ヨーロッパでは、まず枠組みを決め、その中に部屋を置いていく建築方法が多い。飛行機で空から見ると、実に整然としています。
ところが、武家屋敷に代表される日本の建物は、設計図すら存在していない。どうやるかというと、まず、部屋を一つ作ってみるんです。そこに床の間を置いて、引き戸も丁寧に作り込む。次に隣の部屋を作って、その先に風呂があって、女中の部屋がここで、なんてやっているうちに「あ、玄関を忘れていた」って(笑)。
これを空から見るとバラバラです。ヨーロッパ人は「何でこんなふうに作るのか」と思う。
#NAME?
鈴木 もっと整然とするでしょうね。まず、左右対称になっていないということがあり得ないはず。
加藤さんの言葉を借りれば、ヨーロッパ人は、全体から入って部分を考えるのに対し、日本人はその逆。宮さんが作った三鷹の森ジブリ美術館がまさにそうです。
彼は海外からイマジネーション豊かだと言われるけど、日本人にとって、この「建て増し」の発想は自然なことなんです。どっちがいい悪いということではなくて、そういう習性だということを知ることこそが大切であってね。「ハウル」はそういう作品になるんだと思いますよ。
日本人の具体的・非体系的・感覚的な美的感覚。これは理性というより、みたままで感じる、感性や悟性に働きかける美をも認識していることではないだろうか。
2.茶の湯のこころ
茶の湯のこころに、利休七則と和敬清寂(わけいせいじゃく)というのがある。
利休七則は「花は野にあるように」で有名な心得。
茶は服のよきように、炭は湯の沸くように、夏は涼しく冬は暖かに、花は野にあるように、刻限は早めに、降らずとも雨の用意、相客に心せよ。
「茶は服のよきように」とは、お茶は心をこめて、おいしく点てましょうという主客の心の一体感を指す。
「炭は湯の沸くように」とは、湯がよく沸くための、上手な炭のつぎ方があるけれど、形式だけでのみこんだのでは火はつかない。本質を見極める重要性を説く。
「夏は涼しく、冬は暖かに」とは、季節感をもって、自然の中に自分をとけこませるような工夫のこと。
「花は野にあるように」とは、いのちを尊ぶこと。野に咲く花の美しさと自然から与えられたいのちの尊さを盛りこもうとする気持ち。
「刻限は早めに」とは、時間はゆとりを持つことで、自分の時間も他人の時間も尊重すること。
「降らずとも雨の用意」とは、どんなときにも落ち着いて適切に場に応じられる自由で素直な心を持つための用意。
「相客に心せよ」とは、正客も末客も、おたがいを尊重しあい、楽しいひとときを過ごしていただく気遣い。
和敬清寂(わけいせいじゃく)とは茶の心。
「和」とは、お互いに心を開いて仲良くすること
「敬」とは、お互いに敬いあうこと
「清」とは、清らかさ。外見だけでなく心の中も清らかであること
「寂」とは、どんなときにも動じない心
利休七則も和敬清寂も、その身そのままで、美しくやすらいだ心のなかにある幸福感を共有して、もてなす心を説いている。作為は入れない。そんなのは野暮ったい。
華美な装飾を捨て、虚飾を去り、自らを自然の一部にまで溶け込ませることで初めて、生きとし生けるもの全ての命が見えてくる、それが「わびさびの心」のようにも思える。
自らを飾る心の中には自分しかいない。他の命が見えない。虚飾を去るからこそ、自らの心の姿が顕わになる。心の美しさが映し出される。
利休の凄さは、戦乱の世にあって、命の尊さを世に示したこと。虚飾を去ることで、自然や命そのものを浮かび上がらせ、わびさびの茶の湯を形式化して、完成させた。
すべての生きとし生けるものを愛で、慈しむ心。そこには、存在そのものが美しいとする日本人独特の感性と悟性が息づく。
日本人は、美しさというものを形だけではなくて、存在や命そのものにも美しさを見出している。
存在そのものが美しいという感性は、たとえ滅びゆくものであったとしても、そこに宿る命の輝き、生きようとする生命力をも、美しさの一部として捉えることから生まれるように思う。姿かたちが変わっても、それだけで美がなくなるわけじゃない。
だから、たとえ形が崩れているものであっても、そこに命が込められていれば、生きようとする意思を感じ、そして命のかがやきを見ることができる。
あたかもゴッホのひまわりのように、生命力の美に通じるものがそこにはあるように思う。ゴッホ自身がこう語っている。
「ひまわりは枯れても美しい。真っ直ぐ天へ向かって生き抜いたからだ。生き抜いたから、枯れたって美しいんだ。そして最後に未来に向けてたくさんの種を残す。こんなに美しいものが他にあるか?」
3.都市の美と理性の美
都市の美と理性の美は親和性が高い。合理性という共通点でかたく結ばれているから。
住宅や建物が立方体または直方体が多いのは引力のせい。床面はやっぱり平らでないと生活しにくい。壁が曲面や斜めだと、家具は置きにくし、隙間にごみもたまる。養老天命反転地で生活なんかできない。
だから、都市の美って理性の美に傾きがち。都市には狭い範囲にいろんなものが集まるから、無駄を省いて効率をあげて、合理化しないと成り立たない。合理的でないと都市じゃない。
ドラえもんの道具のように、塗ればそこが下になる重力ペンキなんかがあれば、球形の建物が普通になっていたのかもしれない。表面積が最小で体積が最大になるから材料を節約できる。
少し脱線したけれど、一般の認識での、都市化と美の共存というのは、理性の美を都市の機能とどう共存させるか、ということだと思う。
そのためには、合理性という共通項のある造形美、対象性の美を追求することになるし、実際の都市もそうなっている。
そこで美に対する意識の差が、西欧と日本との間で出てくることになる。
西欧の造形美は、人々の認識のなかで、「形として美しい」とされているから、壊れることはそのまま美の破壊となる、だから永遠にその形を留めておこうとする。
都市計画でも、全体の形として美しくデザインして、それを永遠に残しておこうとする。住民にも美化に勤める意識がある。
だけど、日本人は形の美しさが美のすべてじゃなくて、存在の中にある命の輝きを含めて美としてるから、全体の形やデザインは完璧でなくてもいい。作為的なのはかえって嫌われる。
4.命をふきこむ
建築史学者の鈴木博之教授は、その著書で、西欧に比べて日本の都市が美的でなく混乱と無秩序に満ちていると指摘されることが多いのは、我々の日常生活に永遠がなく、今しかないからだろうと述べている。
これは、形ではなくて、共に生活する建物・家屋そのものにも命の輝きを見出す日本人が、個々人で、その命の輝き度合いの感じ方が違うことによって生まれているのではないだろうか。
まったく同じ形・強度の建物であったとしても、大工が魂をこめて作った建物と、生産性だけを考えてぞんざいに作った建物とでは、そこに価値の差を日本人は感じてしまう。匠の手でホゾを切って、木材をつないだものと、単に機械で作ってはめ込んだものとでは、価値が全然異なると思う感性がある。
価値の差の感じ方は人それぞれだから、簡単に壊したりする人もいれば、逆に残したりする人もいるけれど、往々にして、無機質な、命の輝きが感じられないものは軽く扱われがち。魂が入っていないと感じてしまう建物は簡単に壊されてしまう。
日本人の感性は、建物の形そのものだけで美を計っていない。むしろ命とみる。建物をも命としてみた場合、その建物は転生輪廻の対象にもなる。建物や都市をそのままの形で永遠に保とうとするより、滅びたものはまた生まれ変わるという発想。伊勢神宮の式年遷宮のような意識がある。
日本の伝統的な木造建築は、非常に解体しやすい構造になっていて、比較的容易に建物全部を解体することもできれば、構造材が傷んでくると、その部分だけを取り替えることができるという。構造から転生輪廻しやすくなっている。
転生輪廻させてもらえる建物は、建立当初に、命をこめて、またそこに住んだ人々の想いがこもっていると思わせるほどの感性と悟性に訴える建物。
だから、文化遺産を建て直すときには、建立当時の職人たちにも負けないくらいの匠の技と魂をこめないと許されない。
法隆寺金堂などの復興を果たし、最後の宮大工とよばれた故宮岡常一棟梁は、こう述べている。
「均一の世界、壊れない世界、どないしてもいい世界からは文化は生まれませんし、育ちませんわな。職人もいりません。なにしろ判断の基準が値段だけですからな。
法隆寺や薬師寺に参拝に来ても、すぐに帰らんとよく見てくださいな。これらの建物の各部材には、どこにも規格にはまったものはありませんのや。千個もある斗にしても、並んだ柱にしても同じものは一本もありませんのや。よく見ましたら、それぞれが不揃いなのがわかりまっせ。
どれもみんな職人が精魂を込めて造ったものです。それがあの自然のなかに美しく建ってまっしゃろ。不揃いながら調和が取れてますのや。すべてを規格品で、みんな同じものが並んでもこの美しさはできませんで。不揃いやからいいんです。
人間も同じです。自然には一つとして同じものがないんですから、それを調和させていくのがわれわれの知恵です。
大きな仕事は人の考えを無視して、支配する力だけではできないんですな。もしそうやったとしても心のこもった仕事はできません。心のこもった仕事をせな、建物は美しゅうないし、長く持たせられませんな。それでは木の命を生かすことはできません。」
はじめに、都市化を「自然美を一部壊して、造形美に置き換える変化」と定義してみたけれど、日本人の都市化とは、どちらかといえば「自然美は一部壊すかもしれないけれど、そのかわり別の自然や命が宿る変化」という認識だと思う。
人の手によって作られた存在であるけれど、そこに神様がいると思わせる建物。樹齢何千年の檜の大木で作った建物には、自然と神様が住んでいると日本人は思ってしまう。そんな建物は大切にされる。壊れても建て直してくれる。生まれ変わる。
だけど、現代都市は、狭い空間をいかに広くつかうかという命題を抱えてる。木造建築では強度の問題もあって、高層建築はつくれない。自然素材だけでは限界がある。
5.美の奥にあるもの
すべての科学技術の基礎になる学問である数学。おそらく理性の最たるもの。
数学の厳密性ときたら他の学問の追随を許さない。こんな小話がある。
天文学者と物理学者と数学者がスコットランドで休暇を過ごしていたときのこと、列車の窓からふと原っぱを眺めると、一頭の黒い羊が目にとまった。
天文学者がこう言った。「これはおもしろい。スコットランドの羊は黒いのだ。」
物理学者がこう応じた。「何をいうか。スコットランドの羊には黒いものがいるということじゃないか。」
数学者は天を仰ぐと、歌うようにこう言った。「スコットランドには少なくとも一つの原っぱが存在し、その原っぱには少なくとも一頭の羊が含まれ、その羊の少なくとも一方の面は黒いということさ。」
それほど厳密な学問なのにも関わらず、数学は美しいという。著書「国家の品格」でも有名な数学者 藤原正彦教授によると、美的感性がないと数学者として大成しないという。
フェルマーの最終定理を証明する途上で、谷村-志村予想が証明されて、全然別の領域であるモジュラーと楕円曲線に架け橋ができた。チョモランマとモンブランのてっぺんに、山頂をつなぐ虹が見つかった。これに驚嘆して、美しいと思う心。
あたかも、神の法則を掘り出す試みのよう。自然法則に対して人間が抱く美意識の正体。神への信仰に似た感覚かもしれない。
日本人のもつ美の感性、自然の美やあるがままの姿が美しいとする美意識は、神の法則を尊ぶ態度。あるがままの自然に流れている、神の法則をそのまま受け入れる尊敬の念。これも神への信仰に近い感覚だと思う。
つまり、西欧の美は、神の法則を掘り出して、見つけ出して、それを形にしようとしたもの。たとえ今は、神の法則の一部しかわからなくても、研究と探索によって、神の美を発見し、体現していこうとする態度。
日本の美は、神の法則を形にして掘り出すことはしないけれど、神の法則が自然に流れていることは知っていて、認識もできる。自らの心の虚飾をどんどん削り落としていくことで浮かび上がってくる、自然そのままに在る命に宿る神の法則を見つめ、尊び、祭り上げる尊崇の念。
どちらも、神への尊敬の念を美意識として表している。アプローチが違うだけ。
日本人の美意識が、自然と命に流れる神の法則を尊ぶ意識を根底にしている以上、日本人の美意識と両立しうる都市とは、たとえ無機物であっても、存在そのものの中に美が含まれる存在、魂がこもった建物であり、命のきらめきが入っている都市だということになる。
命の輝きを持った建物・都市を創るのであれば、それらがいったいどういうものかを研究する必要があるだろう。それは、昔ながらの重要文化遺産にヒントがあるように思う。
都市化と日本人の美意識を両立させるとは、建物や都市に「命をこめる」ということなのだ。
(了)
この記事へのコメント