契約と均衡(相互信頼とは何か その7)

今の社会で「契約」という考えはとても大きな意味を持つ。キリスト教圏でもイスラム教圏でも「神との契約」というインフォーマルな「戒」が脈々と流れているから。

日本人からみれば、外人は契約にうるさいし、仕事でも契約したことしかやらなくて気が利かないって思うこともあるけれど、さもありなん。「神との契約」が根本にあるから一字一句そのとおりにする。むしろそのとおりにしなければならない。気を利かせて余計なことまでやるなんてとんでもない。

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日本人が持っている価値観の建て増し構造の中では、「契約」という概念はあまりない。規範の絶対的基準がないのだから、契約すべき条項がそもそも存在しない。

なのになぜ、「契約」を基本とする近代民主主義経済活動が日本でも成り立っているかといえば、社会の「和」を保ってゆくためには必要最低限のモラル、特に約束を守るということが求められるから。

日本には商売上の契約なんかにおいても「和」を保つというインフォーマルな規範があって、それを具体化する上で、建て増し構造の様々な価値観の中からその場に最適なものを取り出して適用している。

だから「和」を保つためには、契約外のことまでその場の空気を読み取ってサービスすることもあれば、必要とあれば、契約だけをしっかり守ることで信頼を得たりもすることもできる。

では「和を保つ」という事こそが、明文化した規範であるかといえば、そうでもない。

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「和」とは絶対的な形があるものではなくて、相手や周囲との関係のバランスを取って全体として調和して成り立つもの。その場その場でつりあいのとれる均衡点に存在するもの。

それは、神と結んだ「契約」のように固定化したものではなくて、いくらでも移動できるもの。

だから日本の社会における「戒」や法感覚には、やっぱり価値観が建て増し構造になっていることが基本にあって、それが日本社会のモラルを成立させる要素にもなっている。

自分が十七色の縦糸を持っているのと同じように相手も十七色の縦糸があるはずだ、という前提があって、その上で相互信頼性を保っている社会が日本。

だから、日本社会における相互信頼とは、国民全体を覆う社会的均質性がないと成立しない。その均質性とは、もちろん建て増し構造の価値観を皆が持っているということ。


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