相互信頼性とは何か(相互信頼とは何か その6)

相互信頼性とは、社会生活を成立させる要素、規範を互いに尊守するだろう、という暗黙の了解。

法律で定められた規範は目に見える形で、また同時に国内に広く普及し運用されているものだから、人々は法律ぐらいは守るだろうという了解がある。法律を犯せば罪に問われるのだから、普通はしない筈だ、と。

だけど、世の中は法律だけで成り立っているわけじゃない。

法律が想定していなかった出来事や、マナーに類することまで法律は手を伸ばしていない。そこを統制するものは、インフォーマルな規範。モラル。

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[Asagi's photo]より


フォーマルな規範は法律として明文化されるから誰にでも分かる形になるけれど、インフォーマルな規範は個人の価値観に従って「戒」となる。それらの「戒」は個人が自主的に定めるもの。だからその「戒」を社会的モラルとして成立させる為には、そのモラルに対する共通のコンテクストを持っていることが前提となる。

インフォーマルな規範は目に見えない。だから一見わからない、それを認識する道具として、個々人のアイデンティティがある。普通、一般の宗教・宗派なんかだと、教義というコンテクストが存在する。だからそれを元に相手のコンテクストは類推できる。

誰それはムスリムだから毎日お祈りするのは当たり前だ、とか、彼は敬虔なクリスチャンだから、毎週教会にいくんだな、といった言動に対する受け入れ準備が可能になる。

そうした細かいアイデンティティの確認と実際の社会生活でのすり合わせを続けていくなかでだんだんとマナーレベルでのモラルが形成されていく。それは結構時間がかかるもの。

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[Asagi's photo]より


たとえば、今の自由主義経済を成立させているルールは「契約の尊守」だったりするのだけれど、これを宗教的な教義に置き換えると「嘘をついてはならぬ」という教えになるだろう。

約束を守るとか、嘘をつくな、というのは、どんな宗教・道徳律でも説いているから、これはどんな価値観でも共通なコンテクストになっている。無神論の国は別として。

だから、契約という考え方とその尊守という規範は、律法においても戒においても世界共通のルールとして機能してる。「嘘をついてはならぬ」という教えは、実は今の世界そのものを支えている。

社会の信頼性というものを考えたときに、インフォーマルな「戒」の内容と「律」の内容が一致しているときにその「律」に対する信頼性は高いものになる。

幾ら、「律」で縛っていても、その内容が「戒」からかけ離れていたら、ばれなきゃいいとか、つかまらなければオーケーだと考えてその「律」を平気で犯しかねない。そこに信頼性はない。

だから社会における相互信頼性は「律法」と「戒」の二つで形成されるけれど、特に「戒」の部分、インフォーマルな規範の部分がどれだけしっかりしているかで決まってくる。


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