日本は個人の価値観と社会的規範、つまり「聖」と「俗」が分離していない社会。
「聖」の部分は家庭内教育や伝統的価値観で形成されることが多いから、縦糸がおもな役目。「俗」は社会規範、社会を治めていく規範だから横糸が担う。
日本の縁起の糸は「十七色の縦糸」で触れたとおり、横糸から新しい色の糸が繋がってきても、そのまま縦糸の中に織り込んでしまう構造を持つから、最終的には「聖」の縦糸も「俗」の横糸も同じ色合いのより糸になってしまう。もちろん鎖国の時期の長さによって縦糸・横糸の色の調整具合は異なる。鎖国の時代が長ければ、縦糸も横糸もすっかり同じ十七色のより糸になるし、短ければ十分に同じ色にならないこともある。
十七色の縦糸を持つということは、その場、その場の状況に合わせて、最適な色を選択して調和してゆけるということを意味している。「聖」も「俗」も。
そこには絶対的な明文化された基準は存在しない。あるのは歴史の中で道徳・倫理的に正しいだろうとされている、ありとあらゆる価値観を建て増し構造で組み立てられた規範の群れ。
それら規範の群れの中から、その場その場に合わせて、議論の流れや正当性はどの辺にあるかを見極めながら、最適な色の価値観・規範を持って対応するというのが日本人の法感覚。
規範そのものでさえも民主的に決定する、規範の民主化を社会的に適用して運用している国民であるともいえる。十七条憲法の第十七条が今も生きている。
その場の状況で最適な落とし所を探っていって、バランスを取ってゆく感覚。絶対的基準なんて元からない。その場その場で規範の「重心」を見てゆく。
ここで大切なのはどの規範を選択すべきなのかという問題。日本人の価値観の建て増し構造で運用されている価値観群は、長い歴史の中で残ってきて正しいとされているものだから、原則どれを選んでも大して不都合は起こさない。ただ状況や場によっての最適解があることはある。
いずれにせよ、その場に応じて価値観を選択できるのが日本人だという感覚が基本。いわゆる「空気を読む」という行為。
だから日本人にとって民主制というのは、もともと「空気を読みながら」合意形成していたプロセスを目に見える形にしただけの、ある意味自然な行為なのかもしれない。
こういったその場その場で規範を相手との関係を見ながら柔軟に変えてゆく法感覚は、外国人からみるととてもわかりにくいはず。
ある高名なイスラムの学者は、日本に長年滞在し研究した結果こう述べた。「日本には目に見えない規範がある」
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