日本人の法感覚(相互信頼とは何か その4)


当日比野庵からリンクしている「途転の力学」さんの「日本人の法感覚とは」というエントリーにおいて、日本人の法感覚として、明治以降日本が輸入した「法」体系は、西洋のキリスト教的倫理観に基づいたものであるがゆえに違和感を感じているとし、「コミュニティ」には、本来「法」に頼らない問題解決能力が備わっていると述べている。

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日本人の法感覚の淵源はおそらく聖徳太子の十七条憲法にまでさかのぼる。その感覚は何々が唯一絶対正しいというものではなくて、価値観が建て増し型で多様性を持ち、よくよく皆で相談して決めるというもの。

西洋のキリスト教的倫理観による絶対規範を基準にしたものじゃない。それは戦国時代の昔に回避した。だから、明治以降日本が輸入した「法」体系に違和感を感じるのはある意味当然とも言える。

唯一神による絶対的規範がない社会やコミュニティである日本社会で規範になったのは何かというと「穢れ」の意識。

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穢れと禊」のエントリーでも触れたけれど、日本社会には、法律という目に見える罰則とは別に「穢れ」という目に見えない規範が存在する。

この「穢れ」という規範は、日本人のコミュニティに対する禊意識と密接に関係している。その基本は他人との関係を調整するところの秩序維持。

「穢れた」というのは明文化された律法などの絶対基準によって判定されるのではなくて、相手との関係を阻害した、いわゆる「和」を乱したという行為によって判定される。絶対的ではなくて相対的な判断基準。

「穢れた」人は、いったん「和」から離脱して、山に籠って禊をして、穢れを祓い終わった頃に再び「和」に復帰する。あくまでも「和」の維持が第一の社会。


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