建て増し構造を保証した第十条(相互信頼とは何か その2)

十七条憲法には、価値観の建て増しという日本的価値観の構造の原型が見て取れるといったけれど、その建て増し構造を成立させた理由はその憲法自身の中にある。第十条がそれ。

十条ではこう説いている。


「十に曰わく、忿(こころのいかり)を絶ち瞋(おもてのいかり)を棄(す)て、人の違(たが)うを怒らざれ。人みな心あり、心おのおの執(と)るところあり。彼是(ぜ)とすれば則ちわれは非とす。われ是とすれば則ち彼は非とす。われ必ず聖なるにあらず。彼必ず愚なるにあらず。共にこれ凡夫(ぼんぷ)のみ。是非の理(ことわり)なんぞよく定むべき。相共に賢愚なること鐶(みみがね)の端(はし)なきがごとし。ここをもって、かの人瞋(いか)ると雖(いえど)も、かえってわが失(あやまち)を恐れよ。われ独(ひと)り得たりと雖も、衆に従いて同じく挙(おこな)え。」

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自分と他人の意見が違っていても怒ってはいけない、人それぞれに考えがあり、それぞれに自分がこれだと思うことがある、しかし彼も我も共に凡夫なのだ、そもそもこれがよいとかよくないとか、だれが定めうるのか、相手がいきどおっていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかとおそれさない、として相手を責める前にまず自らを反省せよと規定している。

ここにはもはや一神教的な「我のみ正し」の考えは微塵もない。

この十条によって、新しい価値観や考えに相対しても、無碍に否定することなく、価値観の建て増し構造を可能にしていったのではないだろうか。「われ必ず聖なるにあらず。彼必ず愚なるにあらず。」という考え方が基礎にあればこそ、いかなる意見も一応とっておくという行動に繋がってゆく。

特に「かの人瞋(いか)ると雖(いえど)も、かえってわが失(あやまち)を恐れよ。」に至っては、これまでとどんなに違った考えであっても、その都度自分が間違っていないか反省するということだから、日本的な譲り合いの精神そのものと言っていい。むしろ、この太子の十七憲法以降に日本的精神が明確に形作られたと理解すべきなのかもしれない。


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