今のところ、私はこの追悼式に重要な意義を見出しています。なぜかというと追悼式が、聖火リレーの意味合いを変えるからです。すなわち、「聖火」を「追悼の送り火」にもしているからです。
リレー当日の追悼式にどれだけ集まるかで勝利が決するとはいえ、もはや勝利か大勝利かの選択にしか過ぎません。
エントリー当時は、善光寺さんがスタート地点を辞退するかしないかが決まっていなかったために、辞退しないことを前提に、スタート地点とゴール地点での読経を提案させていただきました。
しかし、善光寺さんがスタート地点を辞退された今となっては、もはやリレーそのものへの抗議行動はたいした意味を持ちません。
主戦場は善光寺の追悼式です。ただ、主戦場とはいえ、参加することで勝利になるのですから、ある意味、もっとも安全かつ楽な戦いといえるでしょう。
むしろ物理的に危険があるとすれば、皆様御懸念のとおり、聖火リレーそのものです。
しかし、その聖火リレーも、追悼式を行うことで、チベットで亡くなられた魂を供養するための「野辺の送り火」になっています。その「送り火」を決して消してしまうこなく、掲げることによって、魂を弔い、五輪が本来平和の祭典であることを世界に発信するイベントになっています。
これまでの聖火リレーと意味合いが180度変わっているのです。
ロンドン・パリなどでは聖火リレーを妨害または消火することで、抗議の意思を示すことになっていたのですが、長野での聖火リレーは、聖火(送り火)を妨害せず、消さないことがそのまま抗議の意思を示します。「送り火」は消してはなりません。
中国は表面的には、そうは受け取らず、日本は北京五輪を支持していると大宣伝するでしょうが、別に関係ありません。世界はそう受け取らないからです。
「ほんの少しの勇気と行動」のエントリーコメントにて、みき様から、黒い喪服で沿道に出ませんかとのご提案がありましたが、そのとおりです。沿道に出られる方は、喪服又は喪章をつけて、野辺の送り火を見送るのが尤も効果があるでしょう。
むやみにシュプレヒコールをあげることなく、ただ見送るだけでも十分効果があります。五星紅旗はためく中、一定の割合で喪服姿が「映る」だけでOKです。危なくなったら逃げることです。
「FREE-TIBET」「チベットに自由を」などのプラカードは大々的に追悼式で掲げられるでしょうから、喪服または喪章をつけているだけで、プラカード代わりになります。
すでに不敗の地に立っています。粛々と「送り火」を見送り、平和裏に聖火(送り火)リレーが行われることを期待しています。

この記事へのコメント
日比野
ひとりひとりができることできるだけ行うことが尊いのだと思っています。仏教は破壊の教えではありません。衆生を救い、涅槃に導き、仏に向かう教えです。
くれぐれもお体はご自愛くださいますよう。祈りは必ず届くと信じています。
みき
三四郎
むやみに拒否するのでなく、「せっかく」やってくる「聖火」を逆手に取ろうと言うことですね。発想の素晴らしさもさることながら、まさに仏教国・日本らしい意義あることだと思います。