平和の祭典(長野の聖火リレーについて 最終回)

読経デモにおいて、読まれるお経としては『延命十句観音経(えんめいじゅっくかんのんぎょう)』がいいのではないか、といったけれど、これはもちろん、これ以上の犠牲者を出さないようにするため。

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読経デモは、犠牲者を弔いつつも、新たな犠牲者を増やすなというメッセージ。

それはもともと五輪が「平和の祭典」であったということを思い起こさせるという意味において、とても深い意味を持つ。

五輪は平和の祭典であるが故に、平和の祭典であるがこそ、犠牲者を出してはならない、というメッセージとなって、日本から世界中に発信される。チベットの人たちの命が失われていることそのものへの抗議。

このメッセージであれば、北京五輪を支持するとかしないとか、内政干渉だとか、チベット独立だとかという次元を飛び越えているから、日本政府にとっても助けになる。

もちろんこんなことで、チベットの弾圧・文化的虐殺を即座に停止させることを期待できるわけじゃないけれど、今現実に虐殺が行われていることをまずなんとかするべき。

兎にも角にも、まだ生きている命を救うこと。どんなにチベット文化を把持したいと思っていても、チベット人が全員殺されてしまってからでは取り返しがつかない。

いずれにせよ文化的虐殺が止まない限り、チベットでの抗議の火種はくすぶり続ける。だからといって、その火種を消すために命ごと潰してしまうやり方は決して容認できるものじゃない。

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ダライラマ14世睨下の、チベットの独立を求めない、高度な自治を求める、というのは一見消極的であるし、その発言を疑問視したり、いや立場上それしか言えないのだ、といった意見もあるけれど、実は、ものすごく挑戦的かつ現実的な要求。この要求が実現するならば、中国はゆるやかな連邦制にならざるを得ないから。

中共独裁政権にとってそのような要求は飲めるはずもないという意味で挑戦的で、中国の他の少数民族や世界全体をみた上で、今より良くなるという意味で現実的な案。

実現すれば、チベットだけでなく、他の少数民族の文化的虐殺を食い止めることができる。

今回の聖火リレーに対する抗議行動で、すでに小戦略目標の大半は達成しているという視点に立てば、これ以上、欧米各国で行われたような抗議行動を日本が取ったとしても、得られるものは殆どない。

それよりは、読経デモを行うことで、本来の五輪は平和の祭典であるのだということを世界に発信することのほうがずっといい。

決して中国を擁護するわけではないけれど、平和裏に長野での聖火リレーとチベット問題への抗議を行った上で、「真の友人」として、安易に人命を奪うやり方を国際社会は絶対に受け入れない、と誰かが忠告してあげないといけない。

この瞬間にも犠牲になっているチベットの人たちの魂を弔い、平和を願うための抗議。今はこれが大切なこと。

聖火ランナーを務めた人たちから、たとえば欽ちゃんあたりに「聖火リレーの影でチベットの人たちが死んでるんだよね。やっぱりオリンピックは平和の祭典にしたいよね。」なんて発言があれば言うことはない。

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