昨日のエントリーに使った写真に関して気づいたことがありましたので、補追します。
昨日のエントリーに使用した画像は、ネットを徘徊しては、なんの気なしに綺麗そうなのを、ということで選んだものです。
先ほど改めて写真の中身を確認しましたら、偶然かどうか分かりませんが、今回提案させていただいているデモの主旨とぴったり一致していることに気づきました。
最初の写真のお経ですが、これは『延命十句観音経(えんめいじゅっくかんのんぎょう)』と呼ばれるもので、般若心経より更に短い、わずか十句、四十二字からなるお経です。このお経は、より短く、より唱えやすく、しかもより功徳のあるお経を求める人々の要請に応じて作られたもののようで、たいへん覚えやすく、唱えやすくできています。
※『延命十句観音経』
このお経は、その名前の通り『延命の功徳』のあるお経とされており、西暦四五〇年、南宋の王玄謨(おうげんぼ)が北征に失敗した罪で斬殺されるという時、夢の中で「この経を千回読誦すれば必ず許される」と言われて十句観音経を授けられ、目が覚めてから千回唱えることで救われたという逸話があるそうです。
また白隠禅師はこのお経が「観音菩薩から直々に授けられた霊験あらたかなお経」であると宣伝しています。
チベットで命を落とした方も、まさに今、命尽きんとしているチベットの人々をも救わんとするに最適なお経であるように思います。
もし読経デモが実現するのであれば、善光寺のお坊さんと賛同者一同で、このお経を唱えて供養とすればよいのではないでしょうか。
延命十句観音経の読み方は下記のとおり。
《延命十句観音経(えんめいじっくかんのんぎょう)》
観世音(かんぜーおん)。
南無仏(なーむーぶつ)。
与仏有因(よーぶつうーいん)。
与仏有縁(よーぶつうーえん)。
仏法僧縁(ぶっぽうそうえん)。
常楽我浄(じょうらくがーじょう)。
朝念観世音(ちょうねんかんぜーおん)。
暮念観世音(ぼーねんかんぜーおん)。
念念従心起(ねんねんじゅうしんき)。
念念不離心(ねんねんふーりーしん)」
口語訳は下記。
観音様。
私は観音様を信じ観音様にすべてをおまかせします。
私は仏にさせていただく因と縁をいただいております。
仏の教えを信じまた教えをもとめていく人々とめぐりあえるおかげで、
常・楽・我・浄の観音様の四徳が私の身にいただけますように。
わたしは、朝な朝な、夕べ夕べに観世音を念じます。
この一念は私の心からではなく、私の心中に秘められている仏の心の願いでございます。
※観世音菩薩浄楽我浄の四徳
常徳 : 無常の世の中を生きていくのに無常を大切にしていくと、やがては不安のなくなる平常心が具わる。
楽徳 : 苦の世の中を生きるには、苦をよく噛みしめていくと苦からいろいろ教わり苦が苦痛でなくなる。
我徳 : 自分ひとりの力で生きるのではないさまざまな縁に助けられ支えられて生かされ、また、他を生かしていくと言う自利他利のはたらき。
常徳 : 苦だ、楽だと分け隔てをしない。浄だ不浄だと選り好みをしない平等の智慧と慈悲
ご承知のとおり、ダライラマ14世睨下はこのお経を下された『観世音菩薩』の化身とされていますから、読経デモで唱えるお経としてこれほどふさわしいものはないように思います。
次に2枚目の写真ですが、これは大日如来様の仏像です。お顔がいいなぁと特に深く考えもせず、昨日はアップしたのですが、大日如来をWikiで調べると、こうありました。
※『大日如来像』
空海の開いた真言宗において、究極的には修行者自身と一体化すべきものとして最も重要な仏陀である。不動明王は、密教の根本尊である大日如来の化身、あるいはその内証(内心の決意)を表現したものであると見なされている。
後期密教を大幅に取り入れたチベット仏教でも、大日如来は五仏(五智如来)の中心として尊崇される。
大日如来は、チベット仏教の中心であり、魔を払う不動明王は大日如来の化身でもあります。まさに仏の法力で、魔を打ち破れといわんばかりに感じました。
単なる偶然とはいえ、驚いています。
この記事へのコメント
日比野
お経の件ですが、たしかにご指摘のとおり、新たな犠牲者を出させないというメッセージになりますね。でもこれで良いと思います。
参加者みんなで簡単に唱えられるお経であったほうがいいですし、この延命十句観音経はそれに最適だと思います。
追悼にあたるお経は善光寺のお坊さんに脇で上げていただくとかいろいろやり方があるでしょうから。
それよりは、延命十句観音経をメインにしたほうが、抗議の意味ではものすごくインパクトがあると思います。
村石太星人
自利 他利~。淨 楽 我 常 の 4徳 スゴイですね
宗教研究会(名前検討中 淨 楽 我 常
きょーちゃん
日比野さんの中に、引き寄せられる何かがあったのだと思います。
私もお経を一緒に唱えます。
ぷぺぷぺ