原理の奥に潜むもの(聖火リレーについて 最終回)

ダライラマ14世の徹底した非暴力の姿勢は、仏教=平和主義という根本を抑えつつ仏教最高指導者としての権威を揺るがせにしていない。

こうした態度は世界中に平和的メッセージとして発信される。世界も好意的イメージを持ってそれらを受け取っている。

だから、中国がダライラマを口撃すればするほど、どんどん中国のイメージが悪くなるばかり。悪循環に陥っている。

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そうであるにも関わらず、虐殺も止めず、対話も行わず、ただただダライラマは反乱分子であるとか、西欧メディアは事実を伝えないなどと逆切れしてみせる中国政府。

これでは世界からの信頼は得られない。やればやるほど中国自身の信頼は無くなり、ダライラマの声望は高まる。それが分かっていながら、やらざるを得ない国内情勢が哀れではあるけれど、真摯に受け止めるべき。因果をくらますことはできない。

どんな主義主張であれ、その原理の中に暴力的なものがあるかないかということはその主張に対するイメージを決定付ける。

イスラムの原理主義は過激に流れることがあるけれど、仏教の原理主義は釈迦存命時の原始仏教、上座部に立ち返る。そこには争いはない。自らの心を磨き、悟りを得んとする姿にいきつく。

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先に日本仏教界の中で唯一チベット弾圧に対する抗議声明を出した天台宗圓教寺の大樹僧正の声明もその原理に立ち返るもの。

中国を直接に非難するのではなく、宗教の自由が失われる事に対して、チベット人の苦しみに対して、自らの心が、姿勢がなにもせずにいるのを是とするのか、と問うている。

その意味でチベット弾圧から聖火リレーに至るまでの抗議運動を含めた世界の反応は、自らが奉じる原理の是非と、その原理に従った行動を取っているか否かを強烈に問いかけているとも言える。

今回の一連の事件に対峙するということは、自らが一体如何なる存在なのかと問うということなのだ

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※ 天台宗圓教寺の大樹僧正の声明全文

 「いま私たち日本の仏教者の真価が問われています。チベットでの中国の武力行動によって、宗教の自由が失われる事に、心から悲しみと止むに止まれぬ抗議を表明せずにはいられません。

私たちはあくまでも宗教者、仏教者として僧侶をはじめとするチベット人の苦しみをもはや黙って見過ごす事ができません。チベット仏教の宗教的伝統をチベット人の自由な意思で守ると言う事が大切な基本です。

皆さんは日本の全国のお坊さんがどうしているのかとお思いでしょう。日本の各宗派、教団は日中国交回復の後、中国各地でご縁のある寺院の復興に力を注いできました。私も中国の寺院の復興に携わりました。しかし、中国の寺院との交流は全て北京(政府)を通さずにはできません。ほとんど自由が無かった。これからもそうだと全国のほとんどの僧侶は知っています。

そして日本の仏教教団がダライ・ラマ法皇と交流する事を北京(政府)は不快に思う事も知られています。あくまでも、宗教の自由の問題こそ重大であると私は考えています。しかし、チベットの事件以来、3週間以上が過ぎてなお、日本の仏教会に目立った動きは見られません。中国仏教会が大切な友人であるなら、どうして何も言わない。しないで良いのでしょうか?ダライ・ラマ法皇を中心に仏教国としての歴史を重ねてきたチベットが今、亡くなろうとしています。

私たちは宗教者、仏教者として草の根から声をあげていかなければなりません。しかし、私の所属する宗派が中国の仏教会関係者から抗議を受けて、私はお叱りを受ける可能性が高いし、このように申し上げるのは私たちと行動を共にしましょうという事ではないのです。それぞれのご住職、壇信徒の皆さんがこれをきっかけに自ら考えていただきたいのです。

オリンピックに合わせて中国の交流のある寺院に参拝予定の僧侶もいらっしゃるでしょう。この情勢の中、中国でどんなお話をされるのでしょう。もしも宗教者として毅然とした態度で臨めないのならば私たちはこれから、信者さん檀家さんにどのような事を説いて行けるのでしょう。私たちにとってこれが宗教者、仏教者であるための最後の機会かも知れません。

書寫山圓教寺執事長大樹玄承 平成20年4月5日」