真理の大海(信じる行為と理性の関係について 最終回)


分からないものがあるとか、信じるしかないものがあるというのは人類の限界を示しているようにも見えるけれど、分からないものであるとか、目に見えないけれどあるものというのは人間の好奇心・探究心を刺激する。


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分からないものがあれば、なんとかして分かりたい、知りたいと思う気持ち。その心が人類を進歩させる。

もしも、この世もあの世も全てが分かったとしたら、人間はやることが無くなる。食べて、寝て、子孫を残して、といった種の保存という行為自体は行われるだろうけれど、知性・理性・悟性といった高度な精神活動の行き場はなくなる。

全てを説明する唯一絶対の理論が発見されて、分からないものは一切ないと分かった時点で人類の進歩は止まる。

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これまでの歴史で人類が知り得たことというのは、世界全体の中のほんの一部に過ぎないのかもしれない。だけど、信ずるべき世界、目に見えない世界が目に見える世界より膨大であるのは、人類にとってありがたいこと。

いくらでも探求すべき世界がひろがっているということは、それだけ人類の進化の可能性を保障しているから。

様々な発見をした偉大な科学者達がその発見を称えられても、広大な真実のほんの一部を見つけたに過ぎないと語っているのも、おそらく五感を超えた世界の膨大さを知っていたが故。

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真理の大海をたゆとう人類は、信じる翼で大空に飛立って目的地を定め、理性の櫂(オール)で漕ぎ渡ってゆくことでそこに到達する。人類の発見や進歩はそうやって行われてきた。

信じる翼と理性の櫂。どちらも大切な力。

『私は砂浜を散歩する子供のようなものである。 私は時々美しい石ころや貝殻を見つけて喜んでいるけれど、真理の大海は私の前に未だ探検されることなく広がっている』 アイザック・ニュートン

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