ひらめきと感覚(信じる行為と理性の関係について その5)

「ハッキリいって、大山先生は盤面を見てない。読んでいないのだ。・・・脇でみていても読んでいないのがわかる。読んではいないが手がいいところにいく。自然に手が伸びている。それがもうピッタリといった感じだ。まさに名人芸そのものであった。」

将棋界最強とも言われた大山康晴十五世名人を評した、羽生善治二冠の言葉。

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将棋の指し手を考えるプロセスは、信じた仮説に対して、理性で検証してゆくプロセスととても良く似ている。

棋士はただ漫然と指すべき手を全部読んでいるわけじゃない。そんなことをしていたら、あっという間に持ち時間が切れて負けてしまう。

羽生善治二冠によると、実戦での差し手を考えるプロセスは、その場その場の局面で経験から考える必要のない大部分の手をまず捨てて、候補手を二つ三つに絞ることから始める。そして絞りこんだ候補手について、それぞれを読んでいくのだという。

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この思考プロセスを、仮説と検証にあてはめると、候補手を絞り込むのが「仮説」で、手を読んでゆくのが「理性」による検証になるだろう。

だけど、候補手を絞り込んで、手を読んでいったとしても最後の詰みの局面まで読めるわけじゃない。たとえば、3つの手に対して、相手の手を読んだ結果それぞれに3つの手があるとしたら、実際は3手指すだけの局面で3×3=9通りを読まなければいけない。十手先・二十手先なんか読もうとしたら、何百通り、何千通りの手を読まなくちゃいけない。

だから、棋士はその場その場の局面で、限られた時間の中で、最善だと思う手を決断して指すことになる。それは、ある意味選択した手を”詰み”というゴールに繋がる手であると「信じる」行為に他ならない。

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となると、どうやってその手が最善であると信じることができたのか、手を読む数には限界があるから、理性が届かない先にある「信」の世界の結論を選びとる精度の高さが「信じたもの」がどこまで真実なのか、真実に近いかを決める分かれ目になる。

大山十五世名人は、理性による検証なしに正解に近い手を選びとることができた。閃きと感覚の差だといってしまえばそれまでだけど、そのための土台となる要素がある。基礎力と経験がそれ。

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