一人の学者がいくら新しい仮説を立てたところで、周りが誰ひとり信じなければ、本人が証明できない限り仮説はそこで消える。谷村も志村も自分では谷村=志村予想を証明できなかった。
[Asagi's photo]より
谷村=志村予想が証明されたのも、その予想が正しいと「信じた」数学者達がいたから。信じる行為がなければ、どんな仮説だっていつまでたっても証明されない。
もし人間が信じるという能力を一切持たなかったとしたら、おそらく人類はここまで進歩することはできなかった筈。
信じないということは、信じるという行為によって始めて認識できる抽象概念をも一切認めないということ。目に見えるもの、五感で検知できるものしか認めないという態度は物質しかない、いわゆる唯物論と同義。
それは100%物質に制約された世界。広大な「信」の世界のほんの一部に過ぎない金魚鉢のような「知覚できる物質」の世界に閉じ込められてしまうことを意味してる。
[Asagi's photo]より
理性は前提と結論を繋ぐ論理を確認するために使われるもの。前提からスタートして論理ステップをひとつづつ踏んでいって、結論にたどり着くプロセス。それが正しく矛盾なく結びついているかを検証していくのが理性の力。
理性って物事を筋道立てて考える働きだから、その論理ステップはつまるところ因果関係・因果律に行き着く。
既存の知識や前提から出発して論理を繋いでいって、新しい発見に到達するのが演繹法だけど、仮説を信じて証拠を集める方法、いわゆる、あり得べき結論から論理を逆に辿って前提にまで戻るのが不明推測法。論理の方向は逆だけれど、因果律は不変。どちらにも理性の働きが介在してる。
もちろん、目に見えない、知覚できない世界にも因果律が成立するという大前提はあるのだけれど、これが成立しないということは、純粋に因果律だけで構成され、虚数だの、4次元だの知覚できない世界をも扱う数学の定理が成立しないことと同じ。無論数学は自己無矛盾の存在。
不明推測法による仮説の設定というのは、「信じる力」によって未来の世界や宇宙の果てから掴みとった結論に対して、その前提となる「知識」や「道筋」を想定してみるということ。
前提と結論を設定したならば、あとはそれらを結ぶ論理を理性によって検証して行けばいい。
だから、乱暴な言い方かもしれないけれど、理性は信じた結果を検証し、信じる力の確かさを証明するために存在している面があるともいえる。

この記事へのコメント
日比野
最先端科学では仮説だらけ。信じることができないととてもそれを検証することができなくなります。信じることができる能力が人間にあればこそ、科学が発達し得たともいえるかと思います。
耕
しかし謙虚に物事を見つめればその両者は人間の所産として重なり合っていくことが見えてきます。
とても考えさせる記事だと思います。