仮説と信じる力(信じる行為と理性の関係について その2)

不明推測法と知識と認識力」で不明推測法というものを紹介したけれど、最先端の科学の世界はわからないことだらけ。だからそれらを解明するために科学者達は様々な仮説を立てては、それを証明するための実験と観測を繰り返す。

やがて、仮説を証明するような現象や事実が観測されて、その仮説から「仮」の文字が取り除かれる。さらに時が流れてその「説」が世の中に広く浸透して、多くの人がそれを受けいれるようになって漸くその仮説であったものは一般常識に移行する。

画像


[Asagi's photo]より



だけど、その科学者が証明した仮説のプロセスや観測結果などを一般の人は見ているわけじゃないし、その内容を必ずしも理解しているわけでもない。だから常識だとなっていることも実は多くの人がその説を受け入れて「信じている」から成立している。直接に体験できないような事象なんかは特にそう。プロパガンダが成功してしまう理由もここにある。

一般の多くの人が信じたもの、信じているものっていうのは要は結論部分。その説の前提から結論に至る理論的説明はすっ飛ばして結論だけを受け入れている。最先端学問の難しい話なんて聞いたって分からない。

これまでの通説が新事実の発見によって覆されることなんてよくあること。信じたものが本当に真実なのかどうかは、時の流れという篩に掛けられないと明らかにならないもの。だけど、逆に時の流れによって真実であったものが流されて、間違った説が流布することもある。

真実を多くの人が手にすることは意外と難しい。それは信じるという行為そのものをどのように捉えているかによって、結果が全然変わってくるから。

画像


信じるということは、結論を受け入れるということ。だから証明されていない予想だとか仮説の段階の話であっても信じるという行為によって、その結論を自己の知識にすることができる。それは、時間と空間を捻じ曲げる力。

たとえば、今現在では、まったく明らかになっていない仮説があって、それが100年後に証明されると想定してみた場合、その仮説を信じない人にとっては、その仮説はただのトンデモ話。100年たって始めて既知になる事柄。

だけどその仮説を信じた人にとっては、それはもはや仮説ではなくて真実。100年後にようやく証明されることを、信じることによって、今現在の「既知の知識」にしている。信じることによって、100年後の未来人と同じ認識に立つことができる。

また、地球上ではどうやっても観測できないような、たとえばブラックホール内での現象の仮説があったとする。ブラックホールは一旦入ったら最後、光さえも出て来られない(とされている)から、その仮説を信じない人にとっては永遠の謎。

だけどその仮説を信じた人にとっては既知の知識。これは信じることによって空間を捻じ曲げて、ブラックホール内に飛び込んでその姿を見たことと同じ。

画像