目にみえる世界、目に見えない世界(信じる行為と理性の関係について その1)

信じるという行為と理性の関係について考えてみたい。全7回シリーズでエントリーする。ただし今回のエントリーでは過去様々な人が言及していった「信仰と理性の両立」というテーマではなく、「信じるという行為の持つ意味と理性の関係」に絞って考えてみたい。

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[Asagi's photo]より



信じるという行為は、信仰でも代表されるように目に見えないものを信じること。もちろん目に見えないだけでなく、五感で検知できないものはその対象となる。抽象概念なんかもそう。

分かっていること、当たり前の常識には信じる行為は入り込む余地はないようにみえるけれど、常識というもの自体、実に限定された世界で成り立つもの。なぜかといえば、五感で捉えられる領域が存在全体に比べて非常に限られたものであるから。

いくら五感で検知できたといっても、それが真実の全てである保証があるわけじゃない。それはあくまでも五感で検知できる対象によって構成されている世界というだけ。

たとえば人間の目が可視光線の波長ではなくて、ラジオ波のように曲がったり反射したりする波長しか捉えられなかったとしたら、目の前にみえる対象がそこにはいなくて、全然別の方角にいたり、ずっと遠くだと思っていた建物が目の前にあったりするなんてことが起こり得る。

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[Asagi's photo]より



だから人はより世界を知ろうとすると、様々な計測器を開発しては五感で捉えられないものを五感の領域に変換して知覚する。赤外線望遠鏡を使ったり、電子顕微鏡を使ったりして。

だけど、そうやって次々と世界を知覚すればするほど、ますます世界の広さが見えてくるようになった。天動説の昔であれば、世界は地球が全てであったのが、地動説になって、地球が太陽のまわりを回る一惑星に過ぎなくなった。天体望遠鏡ができると、その太陽すら広大な銀河の中の一恒星にすぎないことがわかった。

極微の世界も同じ。分子・原子・原子核・クォークと、どんどん微細な世界が広がっていることがわかってきた。

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