1.人間とロボット
人間の精神と肉体において、精神が肉体を制御しているのか、それとも肉体が精神を規定しているのか、精神と肉体の関係について考えてみたい。
人間を構成する要素を考えてみると、五感という感覚器官を備えた肉体と知・情・意のはたらきを持つ心からなるというのが、おそらく一般的な答え。
身体の中に心がある、魂が肉体に宿る、という言葉からイメージされるように、心の外側に肉体があって、外界とのインターフェースの役目を果たしているというのが自然な認識だろうと思う。
だから「精神が肉体を制御する」というのは、制御命令の伝達方向で考えると、内側の精神から外側の肉体に命令伝達される方向なのに対して、「肉体の精神制御」は外側の肉体から内側の精神に伝達される、それぞれ逆方向の伝達経路を辿ることになる。
「肉体が精神統御する」ということは、なんらかの外部情報が肉体を介して、精神に伝えられて、その活動を統御するということだから、外部からの情報だけで精神活動が形成されるということになる。
だからこの命題は、たとえば機械に外部情報を入力して、精神活動に類する反応を引き起こすのかどうかという命題に置き換えられる。
ひらたくいえば、心を持つロボットは作れるのか否かという命題。
そのためにまず、人間とロボットの差とは何かについて考えてみることにしたい。
2.不気味の谷とミラーニューロン
人間に近いロボットを作る際に、ぶつかる壁のひとつに《不気味の谷》という概念がある。
《不気味の谷》とは、日本のロボット工学者、森政弘東工大・元名誉教授が1970年に提唱した、ロボット工学上の概念。
森・元名誉教授は、人間がロボットに対する感情的反応は、ロボットがその外観や動作がより人間らしくなるにつれて、より好感的、共感的になっていくが、ある時点で突然強い嫌悪感に変わると予想した。さらに人間の外観や動作と見分けがつかなくなると、再びより強い好感に転じ、人間と同じような親近感を覚えるようになると考え、この概念を提唱している。
現に愛知万博では、人間そっくりのロボットが登場した。東西南北の入場ゲートのインフォメーションセンターに立っていた、受付ロボットがそれ。
「アクトロイド」と名づけられたそのロボットは質感や動作はもとより表情さえ、人間そっくりで遠目でみたら全然区別が付かないほど。YOUTUBEなんかにも、動画がアップされているけれど、驚くくらいにそっくり。
最近の脳科学の進歩で脳のしくみがだんだん明らかになってきたけれど、自分自身の動作に関する細胞に「ミラーニューロン」という神経細胞群が発見された。
本来、ミラーニューロンは脳の中で自分自身の動作を司る細胞なのだけど、対象の動作を見たときにも反応するという不思議な特徴を持っている。
他人の動作を鏡のように頭のなかに映し出す反応を示すから「ミラー」ニューロン。
なんでも脳のなかでは、自分の動作だけではなく、それに近いものを見たときにも反応するようにできているらしい。たとえば、誰かが目の前で食べ物を手でつまむ。すると、自分が自分の手で、食べ物を手でつまんだときに反応する脳内の部位が、同じく反応を示すことがわかってきた。
つまり、人間そっくりのロボットが食べ物をつまむ動作と、そうでないロボットが食べ物をつまむ動作とでは、それを見た人の脳内の反応が違うかもしれないということを意味してる。換言すれば、人間はその「動作」をみて「何々らしさ」を検知して、判断している可能性があるということ。
だとすると、人間そっくりのロボットであるアクトロイドの、その表情も含めた動作をみて、それが人間だと誤認したとしても、少しもおかしくはないのかもしれない。
だけどこれだけでは、不気味の谷現象を全て説明することはできない。ミラーニューロンで説明できるのは誤認の可能性までであって、それを不気味と思う感情との因果関係はまた別の話。
3.「女形」と「人形(ひとがた)」
「声も仕草も色っぽかったー。」
「やっぺし、えぇ女だわ 。」
「すごくきれい。」
大衆演劇の天才女形として活躍する、早乙女太一を見た人の感想。
女形は男性が女性を演じるもので、衣装や声色・動作だけで女性らしさを表現する役者。むろん普通の男性よりは見た目も中性っぽくて、きれいなのは当然なのだけれど、注目すべきは、女性以上に女性らしい立ち振る舞いを行うことで、本当の女性だと錯覚させてしまうことにある。
だけど、いくら女性だと錯覚したところで、女形を不気味とまで思う人は少ないと思う。
なぜかといえば、どうみても女性そのものにしかみえないけれど、本当は男性の役者であって、女性を演じているだけなのだ、という認識が見ている人にあるから。
つまり、女性にしかみえない存在だけれど、実は男性の役者なのだというアイデンティティが、女形と見る人の双方に成立している。それが安心感を生んでいる。
だから、もし不気味の谷というものがあるとするならば、それはアイデンティティの不明確さという問題に帰着してゆくのだと思う。「あなたは一体誰なのだ。」という問い。
なにか得体の知れないものが目の前に現れたとき、それを不気味に思うし、時には恐怖心すら引き起こす。何かわけの分からない存在が自分に危害を及ぼすかもしれないという恐れの感情が芽生える。
いきなりグレイのような、奇怪な宇宙人が目の前に立っていたとしたら、多くの人は、怖くなって立ちすくむか、大声で叫ぶだろう。得体の知れないものは不気味に感じるもの。本能的な自己防衛本能がはたらくから。
本物そっくりの作り物と、作り物だけど本物っぽい存在。どちらに親しみを感じるかといえば、おそらく後者。
それは、丁度、愛知万博のアクトロイドとドラえもんの差に等しい。
前者は作り物だから中身、すなわち心がないのに本物の振りをしている。後者は、自分はロボットであって、作り物だという自己認識を宣言した上で、本物の所作をしている。前者にはアイデンティティがなく、後者にはある。その違いが不気味と親近感の差を生む。
人は見た目だけじゃなくて、おそらくその対象のアイデンティティまでも含めて認知できて、ようやく受け入れる。
確かにアクトロイドは人間そっくりだった。だけどその目に光は宿っていなかった。目は心の窓というけれど、結構、真実を突いている。
4.義手・義足・義体
ロボットと人間の差をアイデンティティ、心の有無という視点で考えてみたけれど、ではロボットと人間の中間的な存在ではどうなのかという疑問は当然あっておかしくない。
半ば概念上の存在だけれど、サイボーグに心があるかという問題がそれ。
サイボーグとは、人間の身体に人工臓器等を埋め込んだり、電子機器をはじめとした人工物に身体機能を代替させることで、身体機能の補助や強化を行った人間の事。
映画やアニメなんかに出てくるサイボーグは、手足からミサイルが出てきたり、足から火を吹いて空を飛んだりして、超人的な能力を発揮するけれど、しばしば自分は人間なのか、それともロボットなのかで悩む姿が描かれている。
たとえば、サイボーグといっても、手足だけを機械に置き換えた場合を考えてみると、義手や義足の人と基本的になんら変わるところはない。だけど、一般社会では義手や義足の人をロボット扱いする人はいない。
では手足だけでなく、内蔵を人工臓器に、外皮や骨格までも機械に、いわゆる「義体」に置き換えてゆくとどうなるだろうか。脳からなにから100%機械に置き換えてしまうと、その存在はロボットと同じになるから、どこかで人間と機械の境目があるはず。
たとえアイデンティティの差がロボットと人間を分けるのだとしても、次にはそのアイデンティティを生むところの人間と機械の間の境界がどこにあるのか?またはないのか?という命題に突き当たる。
この命題を考えるためには、心は何処に存在するのかということと、心も機械化できるのかという二つについて考えなくちゃいけない。
もしも心の存在場所が分かれば、そこを避けて義体化すれば、元の人間としてのアイデンティティは確保される。また心すら機械化できるのであれば、ドラえもんのような心を持った、アイデンティティを持ったロボットが作れることになる。
だけどそんな世界では、人間と機械の境界はどんどん曖昧になってゆくのは間違いない。
5.細胞の記憶
「しばらくの間、私を見つめて・・(ドナーの)母親が言ったんです。"だって貴方が、余りにも息子に似てるから・・・"。」
心臓移植を受けた人物が、手術以降大きな趣味嗜好の変化を体験し、その新たな趣味嗜好は、心臓提供者(ドナー)のそれとピタリと一致していたという、心臓移植を巡る人格や記憶の転移現象が数多く報告されている。
《細胞の記憶》と呼ばれるこれらの例は、まだ学会では認められてはいないけれど、人間の細胞は2~3か月で入れ替わるから、少なくとも記憶などが細胞の入れ替わりにともなって失われてしまわないような仕組みがないといけないのは確かなこと。
記憶をつかさどっているのは脳の中の海馬といわれる部分。海馬はおよそ4千万個の神経細胞からできている。海馬内の特定の神経細胞同士の間のつながりがある程度以上強くなって回路ができあがると、それが記憶になるという。
神経細胞は通常の細胞と違って、自分自身の増殖はしない特別な細胞。神経細胞が自分で増殖しないということは、新しい神経細胞と入れ替わらないということだから、ゆえに記憶が保持されるといわれている。
だけど、その海馬にいったん記憶したものが、未来永劫保持されたままだと、次々と脳に入ってくる新しい情報に対して対応できなくなってくる。
脳ミソの容量には限りがあるから、無限に記憶していくことなんて無理な話。だから、脳はしばらくたてば、忘れてしまうような仕組みも同時に持っているという。
要は、反復繰り返しによって、脳内に作られた神経細胞の回路をいつも活性化できていてはじめて、その部分が記憶として定着する仕組みになっているということ。
シアトルマリナーズのイチローは、インタビューで自宅から球場に入るまでの集中力の高め方についてこう答えている。
--自宅から球場にいくところで、表情が全く変わっていたんですけど、ご自分の中ではスイッチを切り替えるとか意識的にされていますか?
「意識的にしなくても それは勝手に出来ますね。勝手になるんです。 ・・時間がぼくきっちり決まってるんです。
動き出す時間、ストレッチの時間。ゲームに入る前の準備の時間もきっちり決まってるんですね。
それをこなしていったら徐々にポンポンポンって入っていくんです。意識はないんですよね。意識なくスイッチが入っていってる」
自分の知識や経験を記憶するということは、それらを本当に自分のものとして、いつも活性化しているという条件のもとに、半自動的に肉体と意識に刻まれていくのだと思う。今の科学では、そういった働きは脳の部分で行われているということになっている。
だけど、心臓移植を巡る人格や記憶の転移の事例が、本当に《細胞の記憶》を示しているとするなら、その人の「人格」にまで及ぶほどに深い情報は、脳だけではなくて、内臓諸器官にも刻み込まれていて、たとえ細胞が入れ替わったとしても情報を保持しつづける仕組みがあるのかもしれない。
6.意識の受動性
個人の人格、アイデンティティは文字どおり、自分か何者であるかを規定するものだから、その人がもつ固有の記憶が土台になっている。だから人格と記憶の関係は切っても切り離せないもの。
心理学では記憶を、言語として表現できない「非宣言的記憶」と、言葉で表現できる「宣言的記憶」に分類する。言語化できない記憶とは、運動のスキルや思考の筋道など、経験することで定着する記憶のこと。
そして言語化できる記憶、宣言的記憶の部分は、海馬を使う記憶の部分で、それはさらに「意味記憶」と「エピソード記憶」に分けられる。
「意味記憶」は「日本の首都は東京である」といったような、客観的な知識の記憶。
「エピソード記憶」は「昨日、友人と買い物に出かけた。」といったような、その人の個人エピソードにまつわる主観的な思い出の記憶。
「みかん」や「食べ物」といった意味記憶を持つだけでも、単純な生命活動を行うことは可能だけれど、「これを食べたら、おなかが痛くなった」とか、「昨日はケーキを食べすぎたなぁ。」とかいった「エピソード記憶」がないと自己管理すらできなくなる。ひいては複雑な状況に対応して種を存続させることもできなくなってしまう。
だから個人のアイデンティティや人格にかかわる記憶は、主に「エピソード記憶」に依るところが大きい。自分の体験や感覚こそがエピソードになってゆくから。
慶應大学の前野隆司教授は、「受動意識仮説」にもとづいた従来とは違った心のモデルを考え、心を持つロボットは作れると提唱している。
「受動意識仮説」とは、従来、心の機能として捉えられていた「想起」や「知」、「情」、「意」のはたらきを「無意識」に従属する機能であると考え、無意識化で考えられたことの一部が表面意識に上ってきて、それを自分が意識していると勘違いしながら追体験しているとする説のこと。
ひらたくいえば、これまで意識と無意識をひっくるめて「心」と考えられていたものを、そうではなくて、無意識こそが「心」であって、意識はただの受信機だ、とする考え方。
しかも、その無意識下で考えたり、思いついたりすることさえ、脳内のニューロンネットワークで行われている膨大かつ「ランダムな」演算の結果であって、それらのほんの一部を表面意識が受け取っているにすぎないという。
もちろん無意識化で、自律した「ランダムな」演算を行うためには、演算の項にあたる部分、「意味記憶」であるとか、「エピソード記憶」であるとかを、予め入力しておかないといけないのだけれど、逆にいえば、それさえ入れてやれば、無意識化の自律演算はできるということ。
この説が本当だとすれば、精神が肉体を制御するのではなくて、肉体が精神を統御する、つまり、外部入力によって精神作用は生成できることになる。もちろんロボットも心を持つことができる。
7.心を持つロボット
無意識化の演算が意思決定の主体であれば、その無意識で演算する機械のシステムを作って、他の適当な外部入出力装置と接続すればいいという考えも成り立つ。それも心を持つロボットだ、と言えなくもない。
たとえば、ある人物の「意味記憶」と「エピソード記憶」がすべて入力された外部メモリと、無意識化の演算システムを接続すれば、そのシステムの反応や意思はその人物と同じになるはず。
だから、様々な人物の「意味記憶」と「エピソード記憶」をパックにして丸ごとサーバかどこかに置いておいて、必要に応じてロボットにダウンロードしてやれば、その人物の機械的なクローンがいくらでも作れることになる。
もっといえば、複数の人物の「意味記憶」と「エピソード記憶」を適当にブレンドしてダウンロードしたら、「オリジナルな疑似人格」の意識を作ることだって出来るかもしれない。
そんな世界では、身体的な人間と機械の境界線のみならず、意識レベルでの自分が自分であるためのアイデンティティすら、どんどん希薄になってゆく。
もしも、自分や他人の記憶がネット上にアップロードされたり、ダウンロードされたりして、それを他の人が自由自在に使えるようになったとしたら、人間の頭脳は好き勝手に何倍にも何十倍にもアップさせることができるようになる。
たとえば、学校の優等生の記憶をダウンロードしてテストで満点をとるとか、なにかの最先端の研究の途上で亡くなった博士の記憶をダウンロードして、研究を引き継ぐとか。理屈上はいくらでも可能。
スポーツの世界ではよく「練習は裏切らない」と言う。これは修練を重ねて身に着けた技術は確実に自分のものとなるということを意味してる。
仮に、他人の記憶や経験を必要に応じて、自由自在にダウンロードして生きることができる世界があるとすると、そうした人は確かにその能力において優秀で、成功した人生をおくるかもしれない。
だけど、その人自身は、いったい何の人生を、誰の人生を生きているのかわからなくなってしまう。
そこにあるのは、ダウンロードだけしておけば、その裏切らないはずの練習すら必要なくなる世界。
8.肉体を強化する世界
最近の脳科学の研究では、人間の脳は結構あいまいに出来ていて、それゆえに柔軟性を持っていることがわかってきている。
人間の脳には、体の各部分と脳の部位との対応関係を示す脳地図とよばれる図がある。
面白いのはこの脳の地図は後天的に作られて、かつダイナミックに変わるということ。
ごくまれに人差し指と中指がつながったままのいわゆる4本指で生まれてくる人がいるけれど、その人の脳地図を調べたら、5本目に対応する感覚野が形成されていなかった。
だけど指の分離手術をして5本指にしたら、4本目と同じ動きしかできないと思われていた5本目の指は、他の指と別の動きができ、きちんと5本目の指として使えた。そこでもう一度脳地図を調べると、わずか一週間の間に5本目の指に対応する感覚野が形成されていたという。
今ではこの例から、義手を脳の信号でコントロールする、すなわち思っただけで義手や機械を操作する試みが行われている。
人間の脳は与えらた肉体や感覚に柔軟に対応して、それをコントロールできるしくみを持っている。
だから人間の肉体の一部をどんどん機械に置き換えていって、かつアイデンティティを失なうことがなければ、人間は記憶のみならず、肉体性能もどんどん拡大向上していくことが可能になる。超人を簡単にいくらでも作れてしまう。
9.経験の獲得
もしも、最高性能の機械の体を持ち、最高の頭脳の記憶をダウンロードした人がいたとして、その人がどんな人生を歩むのかを考えてみると、かえって不幸な人生になるのではないかと思う。
なぜかというと、思えば何でもできる身体能力と世の中のすべての知識を持っていることそのものが、人生の目的を見つけだすことを困難にさせるから。
思えば何でも適う世界に生きると、たぶん人は何もしなくなる。
もし肉体をなんらかの、たとえば、飲まず食わずで100年生きて活動できるような義体の体に置き換えて、すべての知識と経験を都度ダウンロードできたとしたら、最初のうちはいろいろとやったりするのかもしれないけれど、そのうちにきっと何もしなくなる。
やることなすことすべてが、既にダウンロードされた知識と経験の記憶で知っていることになるから、やってもやらなくても同じ。
寝たままでも世界を経験できるし、それすら、すでにダウンロードされた経験の追体験。まるで映画マトリックスのような世界。
だから、人は、不自由な環境や限定された能力の中で、その制約の中で、目的を持って生きるところに人生の意味があるように思える。
人は自分の人生を生きてゆく中で、自分の体験を直に経験して、自分の力で自分のものにしてゆくことができる。それによって、心をより深く、広く、柔軟にして、人格をも向上させてゆくことができる。
木の葉一枚落ちるのを知っているくらい、何でもかんでも知っているということは、それこそ神の領域の話なのだろうけれど、それを自分の力で自分のものとしていける場として世界が存在しているとさえ。
だから、脳の構造が結構あいまいで、肉体信号の影響をうけて自己を既定しているという事実は、肉体に精神が制御されているとみることもできるけれど、肉体を通して経験したものをきちんと固定化して、自分の心に刻んでゆくのに適した構造になっていると解釈することもできる。
心が肉体を統御するというのが旧来の霊肉二元論的解釈であったのに対して、近年の脳科学の研究から、肉体が心の在り方を規定するという考えが出てきた。
意思の流れる方向は前者が心から肉体方向で、後者が肉体から心の方向と互いに逆。双方は対立概念のようにもみえる。
だけど真実はたぶんどちらも正解。精神と肉体は相互に影響しあっている。双方向通信の関係。仏教でいうところの色身不二。
心の在り方は肉体に刻みこまれ、また逆に、肉体を通じて獲得した感覚は、心に影響をおよぼす。それは経験を自らのものとして心に固定化するため。肉体感覚を心に刻みつけることができるからこそ、心は経験から学ぶことができる。
10.主体的に生きる
アンパンマンの主題歌である「アンパンマンのマーチ」の歌詞の冒頭。
外部記憶とか、無意識システムが人格や意識をつくるという受動意識仮説では、人間の意識存在は生まれた環境や学習で全部決まってしまうことになる。
これは、人間というものを「なぜだか分からないけれど、偶然にこの世に投げ出されてしまった存在」とみていることと殆ど変わらない。哲学でいうところの実存主義にきわめて近い考え。
受動意識仮説では、アンパンマンの歌には答えられない。
何のために生まれて、何をして生きるのかという問いに答えられない事に対して、そんなのは嫌だと思うか否かが、この仮説に対する答えを分ける。
生存するために生きるのか
子孫を残すために生きるのか
なにかを愛するために生きるのか
自分や世界を悟るために生きるのか
どれを選ぶかで生き方は全然違ってくる。
受動意識仮説の世界では、他のだれかの人生も自由に好き勝手に選んで生きることが可能になる。
でも、そんな生き方には人生に対する主体性はない。主体的にその経験をダウンロードすることを選んだ、ということもできるかもしれないけれど、少なくともそこには経験を通じて得るところの達成感や成長の喜びはない。
人間は、その心の思いと行動で、主体的に生きることができる。それによって神様のような人生を生きることもできれば、悪魔と見まごうばかりの人生を選ぶこともできる。
人間は自分の人生を主体的に生きてこそ、自分の人生に責任を持つことができる。
自分の人生を自分のものとして受け止めて、その人生を主体的に選び取って生きることが、人間として生きるということなのだと思う。
(了)
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