先頃、野球の北京五輪のアジア最終予選が行われ、星野ジャパンは見事北京への切符を手にした。
中でも、日韓戦の平均視聴率は23.7%をマークして、今年のプロ野球中継で最高視聴率であった日本シリーズ第1戦の17.6%を大きく上回ったという。
一連の中継・報道・解説をみて強く感じたのは、発展途上のサッカーとは違って、日本国民全体に浸透している野球に対する伝統の厚み、経験の差が圧倒的にあるということ。
まずアジア予選で負けるわけがない、という暗黙の了解が国民のうちにある。次に見ている観客、および中継を見ている日本人の大部分が野球を良く知っているという環境があること。彼我の戦力差やピッチャーの調子・球の切れやコントロールなどをちゃんとみて、これは打てそうだとか、抑えられそうだとか、興奮しながらも的確に見ている。
たとえば、ノーアウトランナー一塁なら、送りバントか一塁方向への進塁打というセオリーがあるけれど、日本人で野球を見る人なら大概は知っていること。野球の世界での常識にあたることが、広く一般野球ファンに浸透しているし、解説者のコメントも視聴者がそれを知っている前提で喋ってる。
また、アナウンサーもそれなりに野球を知っているから、解説者のコメントにもきちんと受け答えできている。過剰な煽りがない。それでもペナントレースと比べて、だいぶ興奮していることは見受けられたけれど。
これらは、日本の国民的スポーツである、プロ野球に対する長い伝統に裏打ちされた実績と自信、更には日本人の野球を見る眼が肥えていることが大きく作用してる。
サッカーとはまだこの部分で大きく差があるように思える。日韓戦では、韓国の打者が、内角の球を避けるどころか反対に膝を出し、わざとぶつけてデットボールにしていた行為があったけれど、試合後の報道やブログを見ても、当然のようにこの話題が取り上げられていたから、大多数の観客や視聴者には分かっていたこと。
サッカーでは、FWがゴール前でPKを貰おうと、ファウルされてもいないのに、如何にもされたようにわざとコケてみせるシミュレーションという反則があるけれど、日本人はまだ野球ほどにはそれを見抜けないのではないか。
普段からどれだけ見ているか、親しんでいるかの経験の差がそこにはある。
2.勝利か内容か
2007年の日本シリーズは中日が制し、53年ぶりの日本一になったけれど、日本一を賭けた第5戦の中日落合監督の投手起用は、後の論議をよんだ。
中日先発の山井投手が8回を86球、6奪三振と一人のランナーも出さない完全試合ペースのピッチングを見せていた。誰しも、日本プロ野球史上初の日本シリーズ完全試合を期待していたのだけど、9回に守護神岩瀬に投手交代。岩瀬が打者3人できっちりと打ち取って、継投による完全試合を達成した。
星野元監督や楽天野村監督はこの交代について、自分なら投げさせているとコメントしていたし、落合監督自身も試合後のインタビューで、山井投手が豆をつぶしたから、投げさせたかったけれど代えるしかなかった、と答えている。
その真偽は兎も角として、この件はスポーツにおける、昔からある命題を思い起こさせる。
それは、勝利と内容のどちらが大切かという命題。
どんなにつまらない試合でも、兎に角勝てばいいのだという勝利至上主義と、いや内容が伴わなければ意味がない、という立場の対立。
これについては次の2つの側面が関係している
A.球団経営的側面
B.ファンの意識的側面
A.の球団経営的側面というのは、一例としてあげれば、選手の年俸を何を持って査定するかということに代表される類の問題。選手は、試合に出て、打ってナンボ、投げてナンボの世界に生きているから、兎に角、試合に出て成績を出さないと話にならない。
年末の契約更改もチーム成績や個人成績を加味して年俸が定まる。優勝チームと最下位チームでは、たとえ同じ20勝を上げたとしても、年俸アップ率でみると前者が多くなるのが普通。負けるより勝ったほう年俸はあがる。選手は自分のためにも勝利を目指して戦うのは当たり前の話。そもそもプロスポーツ競技は勝利を目指して行うもの。
B.のファンの意識的側面というのは、チームのファンが「お客さん」なのか「サポーター」になっているのかに属する問題。
日本の野球は企業スポーツとして発生してきたから、言葉は悪いけれど、親会社や系列会社の広告塔的側面が強い。試合ごとにお客さんが沢山入って、オーナー企業の商品を沢山買ってくれればよい。だから、親会社からみれば、まだまだファンをお客さんとしてみているし、その歴史も長いからファンもお客さんとして野球を見に来てる。
それに対してJリーグなどのサッカーでは、母体は企業スポーツだったけれど、紆余曲折を経て、地域スポーツとしての転換を図り、それが浸透しつつある。
だけど、勝利か内容かという命題についていえば、B.のファンの意識的側面が大きく影響している。
3.サポーターの威力
Jリーグ所属クラブであった「横浜フリューゲルス」は98年、母体企業の撤退に伴い、チームが吸収合併され消滅したけれど、チーム存続を願うサポーターが全国から50万を超える署名と募金を集めた。
サポーターのその熱意によって99年、企業の資本に頼らない地域参加型クラブ作りを目指し横浜FCが設立された。その時、モデルとなったのがスペインの名門『FCバルセロナ』。
FCバルセロナは市民クラブの理想といわれるクラブで、サッカーだけではなくバスケットボール、ハンドボール、陸上、野球、女子サッカー、フットサル、ローラーホッケー、アイスホッケー、ラグビー、フィギアスケート、バレーボールのプロチームを運営している。
FCバルセロナの経営の一番の特徴は「ソシオ」と呼ばれるクラブ会員が年間費を払いクラブ経営に参加できる仕組み。FCバルセロナには母体企業や経営者は存在せず、このソシオがクラブを運営している。
ソシオは世界に14万人いて、4年に1度行われる会長選挙への選挙権を持ち、年に1度開催される総会に参加できる可能性すらある。市民が本当の意味でクラブを支えている。
だから、このような地域参加型のクラブでは、サポーターはもはやファンという名のお客さんじゃなくて、限りなく選手に近い存在。サポーターはサッカーを見に行くのではなくて、選手と一緒に試合に勝つために、スタジアムの観客席に『出場』する。サポーターは12人目の選手と云われる所以。
スポーツライターの玉木正之氏は、その著書の中で、近代スポーツが現在のように競技として確立する以前は、誰でも自由に飛び入り参加自由だったと紹介している。スポーツを「する人」と「見る人」が分離したのは最近のことなのだという。
だから、ゲームを見る側であっても、プレーヤーと同じくらいの参加意識を持って見ている人は、より勝利を求め、ゲームは見るものという意識を持って見ている人は、ゲームが楽しくないと、つまらないから、勝敗より内容を、面白い試合を求めるようになるのだと思う。
勝利か内容かという命題は、観客のゲームへの参加意識の差によって見方が分かれる問題でもある。
4.国際試合と参加意識
国際試合だと、いやがおうにも出場国の威信、国威がかかる。
野球の北京五輪のアジア最終予選の視聴率が、国内中継を大幅に上回ったのも、国威がかかっていることは当然だとしても、それ以上に観客の意識が「見る側」より「する側」にウェートがかかっていたからではないかと思う。見る意識から参加する意識が強くなるのが国際試合。
だから内容よりも勝つことが重要視される。北京五輪の出場権がかかった予選だからというのもあったのだろうけれど、実際の采配も1点を取って、1点を守りきる、勝利に徹したものだったし、アナウンサーも「負けるわけにはいきません」と繰り返し絶叫していた。
星野ジャパンの主将・宮本慎也選手は「国と国との勝負。『戦争』のつもりで戦った」と星野ジャパンの強さの源を明かし、決戦前のミーティングで若い選手達に『今まで自分のために(野球を)やっていたことが多いと思う。でも、今回ぐらいは、人のために、自分以外のためにやっていいんじゃないか』と語りかけたという。
スポーツは平和な時に、ヒトの闘争欲求を満足させるために生まれた、ルールのある代理戦争だという説があるけれど、選手本人はもとより、それを応援する側を含めた人々全体の参加意識に影響される面がより強いのではないかと思う。
今回の予選の盛り上がりを見る限り、地域とか国とかいう単位に支えられたチームが成立すると、その共同体に属する人々に強烈な参加意識が生まれることは間違いない事のように思える。
プロ野球の視聴率が落ちてきて、地上波でプロ野球中継がされなくなりつつあるのを横目に、国際試合になると高視聴率をたたき出す現実。日本のスポーツ界もだんだん企業スポーツから地域スポーツへと転換が進んでいくのかもしれない。
5.勝利とフェアプレー
政治的・経済的利益を除いて、戦争に勝つことと、オリンピックで金メダルを取ることとで、国威の発揚という面だけでみればそう大差はない。
だけど、国威の発揚といっても、国内向けに必要とされるものと、対外的、国際的に求められるものとでは、その内容は異なる。
国内向けにはまず勝利。国際的にはスポーツマンシップ。
国威の発揚って、その対象は自国民。だから国民が求めるものを求めることになる。端的にいえば、勝利そのもの。選手でない大多数の国民も、国際試合になれば、参加意識を持ちやすい。メダルの多寡が重視される。
だけど、それを見ている世界各国にとっては、自国の選手が出場している種目や試合は参加意識を持つけれど、それ以外は「見る側」になっている。内容がないと価値を認めない。グッドルーザー、スポーツマンシップがあることは当然の前提。
だから、国際試合においても、勝利か内容かの命題はやっぱり存在していて、自国は内容より勝利を、競技を見ているだけの周りの国は、勝利より内容を求めるようになる。これらにも、競技に参加する側と見る側の意識の差が反映していることは言うまでもない。
一番望ましいのは、フェアプレー精神を完璧に発揮して、正々堂々と勝負を挑み、そして勝利すること。日本人が一番好む姿。
先の北京五輪野球アジア最終予選で、日韓戦での先発メンバー交代に関する紳士協定を韓国が破った件でも、日本で多々批判されている。日本人は、そういった卑怯な真似は許さない。
あまりにも勝利至上主義が行き過ぎると、当然その弊害も大きい。その場の勝利だけなら反則でもなんでもやりたい放題になる。反則によって、たとえその場の勝利を得たとしても対外的な信用は地に堕ちる。
これもその国家としての世界観がある程度現れているのかもしれない。ある政権や国が永遠に存続するものか、それともいずれ倒されて滅ぼされてしまうものかという世界観の差。
中国なんかだと王朝交代期には、倒された前政権は復讐を恐れる新政権から大抵は完全に滅ぼされてしまう。勝利こそ全て、敗者は滅ぼされる世界。こんな世界に長く生きていると、その場その場の勝利が全てと考えて、その後の評判などあまり気にしなくなるのかもしれない。
日本は天皇の存在もそうだし、島国という村社会が長く続いたから皮膚感覚で国は永遠に続くものと思っている。一度でも評判が落ちたものは生きて生けない。よってあとあとの評判や信頼を重視する考えが身についている。社会文化からフェアプレーが前提の国。
2002年日韓共催サッカーW杯では、世界中から日本に取材が来たけれど、日本選手のフェアプレー精神は高く評価された。中でも興味深かったのは、各国チームが使用したロッカールームは、ゴミがちらかり放題で、それが当たり前だったそうなのだけど、日本チームが使用したロッカールームだけは、使用前みたいに綺麗に片付けられていたということが驚きをもって伝えられたこと。
日本のサッカーは強くなってきたとはいえ、世界からみればまだまだ発展途上。だけどその過程やフェアプレーの精神、さらには世界が日本サッカーを見るまなざしは、明治以降の日本が発展していった歴史過程と、それを世界がどう見ていたかということを再現しているようにもみえる。
当時の日本もその規律正しさや国際ルールの尊守精神が高く評価され、信頼された。日英同盟を結べたのも日本人に対する世界の信用が大きく貢献した。
6.ルールと審判
スポーツはヒトの闘争欲求を満足させるために生まれた、ルールのある代理戦争だという説を取り上げたけれど、実際の戦争に全くルールがないわけじゃない。
国際法では戦争は当事国の軍隊同士が行うことになっている。民間人は対象じゃない。だけど、イラク戦争をみても明らかなように民間人も殺されているから、既に有名無実化してるようにみえるけれど、スポーツ的な見方でみるとまた別の視点で見えてくるものがある。
仮に戦争をある種のスポーツに見立てると、軍隊は選手になるし、航空戦や陸上戦その他は、各種競技種目に相当する。兵器の性能は、身体能力になるだろうし、軍の練度はその選手が持っている技術になるだろう。
この戦争「スポーツ」におけるルールにあたるものは、今の世では「人権」。自国も敵国も等しく「人権」を尊重することになっている。建前上民間人は殺害してはいけないことになっているけれど、勝利を至上とするあまり、手段を選ばなくなれば「誤爆」という名の反則行為を行うことは当然あり得る話。
戦争当事国以外の国々、国際世論は、いわゆる観客としてこれを見ていて、どちらが勝ってる、負けてるを判定してる。眼が肥えた人はもちろん反則行為なんて即座に見抜いてる。たとえ反則した本人がうまく誤魔化したに違いないと思っていたとしても。
反則が反則として成立するのは、ルールがあるからではなくて、権限を持った審判がいて初めて成り立つもの。審判の権限を持って反則者を退場処分できるから、ルールは守られる。退場するのが嫌なら、反則をしないか、審判の目を盗んで反則するしかない。
戦争が問題になるのは、国際法を守る守らないとかいう次元ではなくて、権限を持つ審判がいない状態での戦争がたびたび起こること。強制力を発揮できる存在がいない戦争が一番問題になる。
唯一強制力を発揮できる資格があるのは、他国と比較して圧倒的な軍事力を持つ、いわゆる覇権国。
反政府活動といった地域紛争レベルであれば、時の大国や国連が軍事介入して、止めさせることが出来る。レッドカードで退場処分させられる。
だけど、覇権国が戦争の当事国、つまり審判が選手になってしまったら、反則しようが何をしようが、もはや止める存在がいなくなる。全ての選手がスポーツマンシップを発揮しない限り、審判不在の試合は滅茶苦茶なものになる。
7.身体能力とハンデ戦
スポーツ競技においては、個人でも集団でも、その選手の技術の高さもさることながら、身体能力の高さも大きくものを言う。
サッカー日本代表選手がアフリカの国と親善試合をやった後のインタビューで「届かないと思ったところからでも足が出てくる。」と、その身体能力の高さを口にする光景が良く見られる。
スポーツは身体競技だから、身体能力が実力に大きく影響するのは当たり前なのだけど、それでも同一競技で、身体能力の差が10倍とか100倍とかになることはない。アスリートの世界は100mをコンマゼロ何秒早く走れるかといった微妙なもの。
集団競技だと、個々人の微妙な差が積み重なって、チーム力としては大きな差になることもあり得るけれど、そこはU22とかフル代表とかにカテゴライズして、なるべく差がつかないように工夫したりしている。また、体重がものを言うボクシングや柔道などの格闘技系スポーツなんかでも、体重別に階級分けして、公平な試合が成立するようにしている。
戦争をスポーツに見立てると、身体能力は兵器の性能にあたり、選手本人の持っている技術が軍の練度にあたるといったけれど、科学技術による兵器の性能は、肉体の身体能力とは違って、100倍も1000倍も差をつけることができる。
事実、イラク戦争でみせたアメリカ空軍の兵器の威力は、スポーツでいうところの大人と子供の身体能力の差以上のものを見せつけた。
スポーツの世界でも、身体能力の差があまりにもあると、少々の技術の差なんて関係なくなる。兵器の世界では、それがもっと顕著に現れる。軍の練度に多少差があったくらいなんでもない。
大人と子供が、運動能力で真剣勝負するバカバカしさと同じくらい、兵器性能差がありすぎる国同士での戦争もバカバカしいものとなる。やる前から勝敗は分かりきっている。それくらい差のある相手と試合をしなければならなくなると、弱い方はルールを無視するか、ルールを自分に都合の良いように変更して勝負するしかなくなってしまう。
たとえば大人と子供がサッカーで試合することになった時に、どうやったら子供が勝てるかを考えたとすると、思いっきりハンデをつけるくらいしかない。大人11人に対して、子供100人で試合するとか、子供チームは誰でも手を使っていいとか、子供チームだけオフサイドなしとか。
非対称戦と呼ばれるテロとの戦争なんかはちょうどこれ。大人チームの監督がいくら「卑怯者。正々堂々とかかってこい。」と吼えたところで、子供チームからみれば、卑怯なのはそっちだろ、となる。
8.代闘士
藤子不二夫のSF短編漫画に「ひとりぼっちの宇宙戦争」という作品がある。
これは、地球とハデス星間の戦争での地球側代闘士として選ばれてしまった主人公が、訳も解らず相手方の代闘士と戦うはめになる姿を描いた話だけれど、その中に惑星間の全面戦争は星間法で禁じられており、1対1の代理人同士の戦いをすることになっている、というくだりがある。惑星間の全面戦争は両惑星の被害があまりにも大きすぎるというのがその理由だと説明されている。
本当の意味で正々堂々と勝負するというのであれば、この代闘士同士で戦うというのが一番合理的。
歴史上、ヨーロッパ封建社会では、民事・刑事の紛争は、当事者の「決闘」によってカタをつけていたけれど、女性や老人が紛争の当事者になった場合は、親族の中から屈強な男が選ばれた。当事者の身内の「代わりに闘う」という風習は、やがて「代闘士」という役割の職業化に繋がっていった。
だけど、近代戦争は往々にして全面戦争にまで発展してしまう。なぜかといえば国民国家が成立して、国民全体が戦争の当事者、所謂サポーターになってしまったということと、国家存亡をかける戦争においては、簡単に負けを認める訳にはいかないということがあるから。
たとえば、代闘士制に倣って、金メダルをとった国が次のオリンピックまで覇権を握る、なんてルールがあったとしても、納得する国はまずないだろう。サッカーでは負けたかもしれないが、野球なら勝つ、とか100m走なら絶対負けない、とか次々と勝てる種目で勝負を挑むようになって収拾が付かなくなる。それ以前にそもそもスポーツで決めるなんてナンセンスだと言い出すに違いない。
たとえ、個人がどんなに戦争が嫌いだったとしても、戦争当事国の国民となると、外からみれば、戦争当事者、ファンではなくてサポーター。戦争の勝敗の結果が、そのまま自分の生活に関わるから、「見る人」にはなり得ない。たとえ実際の戦闘をTVで見てるだけであったとしても。
9.プロとサポーター
プロの選手はその道の専門家。その競技においては、もっとも高いスキルをもつ人達。
だけど、そのプロの選手を育てるのは観客やサポーターの目。目の肥えた客の目がプロを更に育てる。
怠慢なプレーやミスを起こしてもブーイングひとつしなかったり、素晴らしいプレーにも無反応なサポーターを背に試合を行うチームと、つまらないプレーやミスには容赦ない罵声を浴びせ、凄いプレーには惜しみない賞賛の拍手を送るサポーターを持つチームとでは、どちらが強くなっていくかは言うまでもない。
プロ野球のように、アジア予選など一位通過が当たり前という国民的合意形成がある反面、相手チームや個々の選手の力は客観的にきちんと評価できる風潮がある日本のプロ野球は、やはり強くなって当たり前。この客観的に評価できるというのは実に大切なこと。これがないと強くなるための正しい対策が立てられない。
サッカー日本代表のオシム前監督は、インタビューで自分がよく発言する「相手をリスペクトする」という言葉を、「尊重する」とか「尊敬する」とかいう意味で、日本のメディアが報道しているようだが、そうではなくて「すべてを客観的に見通す」という意味なのだとその著書で語っている。
このようなサポーターの意識とチームの強さに関しての相関関係は、なにもスポーツだけの話じゃない。国政や国防だって同じ。
今の国際社会では、厳格なルールと審判を持たせるのは難しいけれど、政治や軍事に関して、国民の目を肥えさせることはできる筈。
国民は国に対して、税金という名の年会費を支払うソシオ。クラブ会員でもある。その国民がサポーターの意識を持って政治に参加しているのか、それとも一ファンとして、ただのお客さんとして見ているのかでは、その国の政治の強さは全然変わってくる。
国民がサポーターの意識を持って国政を見るようになると、だんだん政治的な目も肥えてくるし、おかしなプレーには容赦ない批判を浴びせるようになる。正しい政治を行って当たり前だ、という意識や風潮が醸成されてゆくにつれて、政治家本人の政治技術、政治力も磨かれ、向上してゆく。
「一国の政治家のレベルはその国の国民のレベルに比例する」とは良く言われることだけれど、まったくそのとおり。愚民の上に苛き政府あり。日本の政治を良くするということは、国民が国政のサポーターになるということなのだと思う。
(了)

この記事へのコメント
あるぱか
「政治に対するサポーター」と言う意見はもっともだと思います。
こうした確たる視点でサポートするサポーターが増えるとイイですね。
サッカーのサポはちょっと勘違いしている気がします。
日比野
戦争とスポーツには密接な関係があるのではないかと以前から思っていたのですが、玉木正之氏の「スポーツとは何か」を読んだのが本稿を書くきっかけとなりました。
今後ともよろしくお願いいたします。