■ 天使のコミュニケーション

 
再掲です。

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1.コミュニケーションできる条件

コミュニケーションをする意味について考えてみたい。

まず、コミニュケーションを行う意味について考える前に、そもそもコミュニケーションが成立する条件について整理してみると、おそらく次のようになるだろう。


1.外部との通信インターフェースがある
2.入出力された情報を認知または認識するための共通データベースがある
3.時間と空間を共有している


1.はコミュニケーションを行うための外部通信機能、人間であれば、五感を持っていて、それらが機能しているということ。

2.は文字どおりコミュニケートされた内容を理解するためのコンテクストを互いに持っているということ。

3.は、彼我の意志を互いに五感で検知できる状態にあること。但し、互いに同じ時間や場所にいなければならないということを必ずしも意味しない。


人間と動植物との間で明確なコミニュケーションが成立しがたいのは、1.の五感機能が完全に共通ではないことと、2.のコンテクストが異なるから。

五感が共通でないというのは、人のように具体的な言葉を喋れなかったり、身体構造が人間と異なるために、人と同じ動作や表情を作れなかったり、同等・同質の性能を持っているわけではないということ。

犬は人間よりずっと鼻が利くし、蝙蝠なんかは超音波を聞くことができる。魚の目の視界は180度もある。そもそも見ている世界が違う。異世界に生きているようなもの。

また、コンテクストで考えてみても、たとえば感情を表す動きも動物と人間とでは異なる。犬が尻尾を振るのはたいてい相手に親しみを覚える時だけど、猫がしっぽを振るのはいらだった時や、攻撃の前触れと言われている。種によってコンテクストのデータベースからして異なる。

だから、動植物とコミニュケーションをとろうとおもったら、まず五感などの外部通信インターフェースを共通にして、さらに種ごとにコンテクストのデータベースを用意しないといけない。最近になって、鳴き声によって犬の気持ちを翻訳するバウリンガルという商品が開発されたりしているけれど、要はこれら1、2の問題をクリアしてやっと実現できるもの。

人間同士のコミュニケーションであれば、1.の五感は共通だから基本的にクリアしている。だけど、2、3となると少々条件がつく。

2.のコンテクストでは、言語や動作の持つ意味であるとか、人種や言語圏、文明圏で少しづつ異なってくる。同一文化・言語圏であれば、これもクリアしているのだけど、他言語同士だと、最低限どちらか一方が相手の言語やそのコンテクストを知っていないとなかなかコミニュケーションは成立しない。

さらに3.の時間と空間を共有しているという条件は、ひらたく言えば相手と話ができる場が出来ていて、かつ双方が話を聞く体勢になっているかどうかということ。

たとえば、仕事か何かで、隣に席を並べていたとしても、互いに話そうという体勢になっていないと会話はできない。一生懸命目の前の仕事に集中している人に話しかけても、後にしてなんて言われるだけ。電話を取次いでも、後で電話しますなんて返されることもよくあること。

また、面と向かって話ができたとしても、相手がうわのそらであったら、いくら話しても通じない。目の前に姿はみえど、心ここにあらず。互いの存在空間は共有されていない。

更には、相手が話を聞いてくれたとしても、話す内容の五感へ変換と逆変換を通じたデータの減衰やコンテクストのズレに起因した誤解の可能性もある。

だから人間同士であってもコミニュケーションを成立させるためには、1,2,3を全てクリアして始めて成り立つことになる。

それほど、相手とコンタクトしてコミュニケーションを成立させるというのは稀有なこと。そうやって、やっとのことで情報発信したとしても、相手が同意してくれるとは限らない。

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2.理解と共感

理解と共感は別のもの。理解したあとの判断として、共感か、場合によっては拒否することもある。

コミュニケーションで得られるものは相互理解であって、相互信頼じゃない。相互信頼はずっと先。コミュニケーションで行われることは、情報の伝達のみであって、伝達された情報に対する価値判断は別に存在する。

自分が伝えたい何かがあって、自分からその情報をアウトプットして、相手がそれを検知して受信するまでがコミュニケーションの範疇。

その内容について良い悪いという評価を出す主体はあくまで相手。

コミュニケートされた内容についての判断は100%相手の主観に委ねられる問題であって、こちらからは一切の干渉はできない。だけど往々にして人は、相手から好意的反応が返ってくることを期待してる。

しかも、好意的反応を貰って初めてコミュニケーションが出来たなんて、自分に都合良く考えたりもする。

自分が発した情報に対して、「好意的な反応」を期待する行為は、本当は自分ではコントロール不可能なもの。その成否はある意味博打と同じ。

にも関わらず、好意的反応が来た時だけ、相手とコミュニケーションできたと考え、否定的反応が返ってきたときにはコミュニケーションが成立しなかったと思ってしまう。

確かにコミュニケーションの原義であるラテン語の「communicatio(分かち合うこと)」に照らし合わせれば、自分の意見が受け入れられない状態というのは、ちっとも分かちあってないじゃないかとも思えるのだけど、分かちあったものは「自分の発した情報そのもの」であって、あなたに対する好意じゃない。

尤も「好意的な反応」が返ってくる確率を上げる方法がないこともない。それは、自分と趣味嗜好や価値観が似ていると思われる人とだけコミュニケーションを取るという方法。

内輪の同好会的仲間とだけコミュニケーションを取れば、自分と同じような考えをしてくれるのだから、そのとおり、なんて手を叩いて共感してくれる。否定的反応が返ってくる確率はうんと低くなる。

たとえば、ネットなんかでの非営利な繋がりでは、仕事と違って個人の好みを行使する為のハードルがとても低い。好きな人とだけ付き合っても誰も文句は言わない。ネットの世界でいわゆるネット魚群が形成されやすい所以。

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3.言葉は幸・不幸を創造する

言葉は幸・不幸を創造する。

言葉の価値やその意味合いは、一旦発言されてしまったら最後、発言者は最早コントロールできなくて、発された「言葉自身の意味」とその言葉を聴いた「本人の主観」の二つで、幸・不幸が決定される。

「言葉自身の意味」と「本人の主観」には、幸・不幸を決める係数としての大小関係があって、どちらが大きいかというと、桁違いに「本人の主観」が大きい。「本人の主観」が殆どといっていいくらい大きな差がある。

どんなに強権を使ったとしてもガリレオの心まで天動説にはできなかった。本人の心を他人が左右することは出来ないから、当たり前の話。

だから「本人の主観」の係数が1の場合、つまり、言葉自身の意味をそのまま本人が受け取る場合において、ようやく「言葉自身の意味」をそのまま相手に伝えることができる。

本人の受け止め方には、大体一定のパターンがある。それは、こういう文脈やこういう言い方をされた時は、こういう意味なのだ、というコンテクストのデータベースがあって、それに基づいて判断されるから。

でなければ、そもそも皮肉というものは存在し得ない。


 ・・・おめでとう(^^)

 ・・・おめでとう(棒読み)


とでは意味が異なるものとして通用してる。少なくとも日本語圏では。

だから、たとえば、言葉を受け取る本人が天使のように素直で、本人の主観係数が限りなく1に近い場合を除いて、言葉による幸・不幸の生成要因は、

受け取った主体の判断>>言葉の意味

という図式が成立する。

どんなに言葉を尽くしたところで、受け取る主体の判断が勝ってしまう。ひねくれ者には何を言ったところで、ストレートに受け取ってはくれない。

よく映画や漫画なんかで、天使が人間界に現れて織り成すドタバタ劇なんてものがあるけれど、大抵は天使は心が美しくて清らかだから、悪意なんて全く知らないという設定になっている。

だから皮肉表現なんかが全然通じなかったり、悪意の言葉をぶつけられると驚愕して泣き崩れてしまう場面などが出てくる。これは天使のように心が清らかであるということは、主観係数がいつも1になっていて、言葉をそのまま受け取る、言葉を自分の主観で歪めないということを意味してる。

こういった天使の心のありかたに対して、誰も異議を唱えないところをみると、天使の心ってそうあるべきだ、という暗黙の了解が人間社会のコンテクストとして存在していて、それを皆が認めていることを証明してる。

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4.天使のコミュニケーション

天使の心を持つということをひとつの理想としている人にとって、受け取った言葉を自分の主観で歪めないということは、天使になるためのひとつの条件。

受け取った言葉を自分の主観で歪めないということは、言葉を受け取るという行為そのものが正しいものでないといけない。

そのためには、まず、受け取る行為自身に歪みがあってはいけない。言葉を五感で、主に視覚と聴覚を通じて認知して心に届けるまでの間で、情報を減衰させたり、歪めてはならぬという前提条件があるということ。

こういった言葉を正しく受け止め、正しく考えるプロセスを仏教では苦しみを滅する為の修行の道として説いている。八正道がそれ。

八正道とは、釈迦が説いた、苦しみから離れるための八つの正しい道。

「正見」・・・正しく見る
「正思」・・・正しく思う
「正語」・・・正しく語る
「正業」・・・正しい行為を行う
「正命」・・・正しく生活する
「正精進」・・正しく道に精進する
「正念」・・・正しく念ずる
「正定」・・・正しく定に入る

釈迦は、これらを完成することで苦しみから逃れ、涅槃に入ると説いた。

だから、言葉の意味の減衰や変容がなく、主観で内容を歪めることもなく、さらに幸福を作り出してゆく理想的なコミュニケーションというものは、対象を見て、思って、自分が語る内容がすべて正しいということと同じ。

それは、上述した八正道のうちの正見・正思・正語の3つを実践することに他ならない。

天使のコミュニケーションとは、仏教的にいえば、正見・正思・正語にのっとったものであるということを意味してる。

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5.ありのままに見る

ごく普通の意見や会話って、世の中に対するもの、いわゆる俗世の話題がほとんど。宗教的信条なんかに基づいた告白とか個人的価値観はそうそう人前でおおっぴらにやるものじゃない。教会とか寺院とかで話すこと。

だから日常会話においては激しい対立はなかなか起こらないのが普通。だけど日本/日本語においては少しナイーブになる。

日本語で、何かの発言に対して、「おめでとう」といわれた場合、主語を抜かれてしまうと、それが自分に対してなのか、その意見に対してなのか、厳密なロジック的には分からない。

本当は、その意見のどの部分に対してなどど、正確に切り分けて主語をつけないとロジックとして成り立たない。ある程度までは、文脈や話した人の表情で分かるとはいっても限界はある。でも日本ではさほど問題視されない。なぜかといえば、俗世的価値観も個人の価値観も一体だから。最初から区別する必要がない。

日本的価値観の構造では、聖なる価値観も俗なる価値観も一体だから、たとえ俗世の話題であってもそれはそのまま個人的価値観である「聖」の部分にまで繋がっている。

日本では、「その人の意見」=「その人の人格」だという暗黙の了解みたいなものがなんとなく存在してる。本来は別のものであるのだけれど。

だから、誰かから意見を否定されてしまった場合、そのままその人の個人的価値観までも否定されたように感じてしまう。人格否定されたと思う。たとえ言った本人がそのつもりでなかったとしても。

受け取った情報を主観で歪めるというのであれば、そもそも自分がなければいいじゃないか、という考えも理論的には可能。歪めてしまう可能性をもつ主体がなければ、歪みようがない。

だけど、考える主体である自分自身まで否定してしまえば、人はただの受信したものをそのまま送信するだけの通路になってしまう。

情報を歪めるものは、間違った心。私心(わたくしごころ)。自分に都合の良いように考える心。偽者の自分。

だから、本当の意味で正しく見るというのは、そういった偽者の我(われ)を取り去った心で受け取らなくちゃいけない。だけどそれは、決して自分がないということじゃない。己を空しゅうして、執着を断った心でありのままに見るということ。

なにかに執着していれば、目に映った像はそれに引きずられてしまう。そこから離れた心で情報を受け取るのが、正しく見るためには大切なこと。

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6.学ぶということ

透き通った心で、ありのままの姿を見つめようと努めることで、コミュニケーションにおける情報の減衰や変容は極限にまで減らすことができる。そうして始めて、相手が伝えたかった内容をストレートに心へ送り届けることができる。

そこから先は、己の心の領域。心で受け取ったものを如何に判断していくか。どういう意味づけをしていくか。

そこは完全にスタンドアロンな世界。外部からの何者も侵入できない自分だけの世界。

他人は自分の心を支配することはできない。それは人から学ぶため。

自分の心に完全な自治権が与えられているということは、外から入ってきた情報を何者にも制約されず、自分だけの判断で、それらを取捨選択できることを意味してる。

だから、「学ぶ」という行為が可能になる。

もし自分の心が、これしか考えるなとか、思い浮かべるなとかいう具合に他者からコントロールされるのであれば、単なるあやつり人形であって主体性のかけらもない。そこには学ぶという行為が存在する余地はない。

このような世界では人は永遠に成長できない。それどころか、悪人に操られて犯罪を犯してしまうことだってあるかもしれない。ならば他者からコントロールされることによる害悪を回避するために一切のコミュニケーションを無くしたほうがいい。

自分の主体的な意思だけで、入ってきた外部情報に意味づけをし、取捨選択できるということは、実に素晴らしいこと。

コミュニケーションにおいて、自分は相手に影響を与えることが可能であるけれど、最終決定権はどこまでも相手が持つ。互いの自主性は保障されている。

互いにコミュニケーションをとることで学び合うことができて、なおかつ自主性を失うことがない世界であってこそ、自分は自分の意思でどこまでも向上することができる。

だから、自分の心の完全な自治権が確立している限り、コミュニケーションそのものが人間の成長の可能性を約束している。

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7.智慧を蓄える

自分の感動した体験かなにかを他人に伝えるとき、それを共感してもらえるかどうかは、伝え方にもよるのだけど、一番大きな要素は、伝えた相手も同じような体験をしているかどうか。

似通った経験をしている場合、その話題になると話は盛り上がるもの。だけどそういった似た経験であっても、そのストライクゾーンは案外狭い。

小さな子供を持つ母親同士の井戸端会議なんかでは、子育ての話なんかはよく出るだろうけれど、子供の性格や行動なんてひとりひとり違うから、子育てという限定された話題であっても、同じ経験にはならないこともある。

下の子の夜泣きが酷くて寝られない、なんて言ったとしても、聞いた相手の子供が夜泣きせずにぐっすり寝る子だったら、その経験がないから共感も湧きにくい。大変だね、と同情されることはあるにしても。

子育てのように、多くの人が体験するような事柄でさえ、共感のストライクゾーンが狭いのに、それが世相や高度な抽象概念なんかの話題になったらもっと狭くなる。針の穴を通すほどのコントロールがないとストライクにならない。

本人の意識の問題といったらそれまでだけど、その意識をどこに向けるかということ自体、相手の心の自治権に委ねられている事柄。外からは手が出せない。

針の穴を通すくらいの精密なコントロールを持つということは、投げたいところにきちんと投げ分けられるということ。さまざまな経験や学びを通して、話題や知識を沢山蓄えているということ。

たしかに直に経験することに比べて、学びを通して得る知識は、体験することと比べて共感できるという意味では見劣りするかもしれない。体験して始めて分かる肌触りであるとか、感触を知識だけで掴むのは難しいから。

だけど、知識として知っているということは、仮想体験のデータベースを持っているということだから、相手の体験を理解する上では大きな力になる。

体験も知識も全く何もない事柄について、コミュニケーションを取ったとしても話の内容すら理解できなければ、その情報を分かち合うことさえできない。

そして、もっと重要なことは、学んだ知識を生きた知識、いわゆる智慧に転換していくこと。本当に理解したことは自分の言葉で一言ででも、何時間でも話すことができる。本当にその事象の本質を理解しているからできること。

たとえ相手の話の内容を自分が体験していなくて、知識としてしか知らないことだったとしても、その知識が智慧にまで高まっていれば、相手の話を智慧のレベルで共感することができる。

この作業を経ていない知識は、「学ぶ」という行為をとても浅いもので終わらせてしまう。智慧にまで転換しない知識は、汎用性に乏しくて、他人に伝えたときにもそのストライクゾーンの狭さゆえに、相手の共感を呼び起こす可能性が低くなる。

智慧と呼ばれるものは、そんなに種類があるわけじゃない。物事の本質だから、表面的にはいろいろある事象の奥底に埋まっているのだけれど、その内容はたいがい同じだったりするもの。

長い年月の風雪に耐えてきた古典が、いったいどれくらい残っているかを考えてみれば、それは明らか。

だから、智慧にまで高まった知識は、その汎用性の広さから、相手の共感を呼ぶ可能性が高くなる。それは相手の智慧と共鳴している姿。

相手から伝えられた情報から、何かを学んで、それを智慧にまで高めて、自分の心の内にストックしてゆく。正思、正しく思うということは、本当はこういうことなのかもしれない。

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8.幸福を創る力

智慧を沢山持っている人は、それだけ他人に貸し出しできる知識を沢山持っている。その知識は智慧にまで転換しているから、相手の共感も呼ぶし、なにより相手の悩みを解決できる力を持っている。救済力がある。

もしも、いつも智慧の言葉だけを喋るような人がいたとしたら、話すこと話すことが、多くの人の共感を呼び、救い、幸福を作り出してゆくことになる。もはや仏陀の域に達している。

言葉ってそれだけの威力がある。現実に幸福を創造できる。それは、あたかも言葉にて世界を創った神にも等しき力。

釈迦は修行の果てに人は仏になれると説いたから、その意味では、人は神の属性を内在している存在ともいえる。

だから、おそらく正語、正しく話す究極の姿はここにまで行き着くはず。そんなことまで意識して話している人はそんなにいないだろうけれど。

こうした観点で、理想的な正見・正思・正語において交わされるコミュニケーションを考えてみると、それはまるで天使の世界のように見えるはず。


その目で見るものは、個性という自分が学ぶべき世界であり、


その心で思うものは、智慧という宝を得られた悦びであり、


その口で語るものには、他者を勇気づけ、救う力が与えられている。



確かに、悦びに満ち溢れた世界。天国そのものと言っていい。



だから、自分とは異なった他者という存在が居て、


自分の心は100%自分でコントロールできて、


自らの言葉によって幸福を創り出してゆける。



ということは、慈悲以外のなにものでもない。

これほどのことを、コミュニケーションをすることで実現できる世界に私達は生きている。

天国は自分の心の中にある。


(了)

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