日本人のあるべき姿について(正義とは何か 補追2)

読売新聞社が5月17、18日に「宗教観」をテーマに日本人の年間連続調査を面接方式で実施したところ、何かの宗教を信じている人は26%にとどまったものの、先祖を敬う気持ちを持っている人は94%に達し、「自然の中に人間の力を超えた何かを感じることがある」という人も56%と多数を占めたという。

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この調査から、多くの日本人は、特定の宗派からは距離を置くものの、人知を超えた何ものかに対する敬虔(けいけん)さを大切に考える傾向が強いと結論づけているけれど、この結果は日本人のあるべき姿を考える上で非常に参考になる。

「何かの宗教を信じていない」と「自然の中に人間の力を超えた何かを感じることがある」が共に多数派を占める事実。

無宗教だけど信仰心があるという回答。厳密には論理矛盾してる。

「日本的価値観の構造」でも触れたけれど、日本人にとって無宗教は無信仰を意味しない

日本の社会的価値観と国民の個人的信仰の部分の価値観は一体化していて、わざわざ特定の宗派に所属する必要がない。日本人であれば、それがそのまま信仰になる。そういう価値観。

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自然法(ピュシス)は自然の中に流れる掟。人智の及ばない普遍で不変な合理的な法だけど、アンケートの回答であった「自然の中に人間の力を超えた何かを感じることがある」というのは、この自然法(ピュシス)を日本人の多数が感知し、認めているということ。

だから、基本的に日本人にとってのあるべき姿というのは自然法に則っていて、それを具体化する段階において様々な外来思想を輸入しては価値観の建て増しを行ってきたのだと思う。

しかもそれぞれの価値観は多種多様であって、ひとつじゃない。いわば「自然法集」というべきものを価値観の束として持っていて、その場その場の空気を読み取っては、最適と思われる自然法を選んで適用している。良く言えば柔軟、悪くいえば適当。ただし、どちらも人間理性を否定していないことは確か。

しかも、先祖を敬う気持ちを持っている割合が94%もある。日本人なら皆持っているこの「敬」の考えは、ひいては神様を敬う気持ちに繋がってゆく。

その場その場で価値観を選択するという考えは、人間の自由意志そのものだけれど、それを認めていながら、神様を蔑ろにするくらいまでに暴走することは許していない。「敬」の考えが暴走にブレーキをかける。

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人間が間違ったことをしたら、間違った結果がでるのは当然だけれど、予め「敬」というブレーキがあるかないかで制動距離は変わってくる。むろん「敬」のブレーキがあるほうが距離は短い。

日本人の場合は人間理性によって何がしかの外来思想を取り入れて、社会に適用しても、いつも「敬」のブレーキがどこかでかかったまま。この考えでいいのだろうか、神様・ご先祖様がお許しくださるお考えはこれがそうなのだろうか、それともあれがそうなのだろうか、と永遠にそうなのかと無意識のうちに問い続けている。

だから、適用した価値観がうまくいかなかったときはこれではないかもしれないとブレーキをかけて、その考えを見直して、必要に応じて修正を試みてみたり、新しい考えを探してみたりする。

日本人にとって自然法と自然権や人権は決して対立するものではなくて、自然法に則って生きるために、自然権や人権があるという修行論的な関係が成り立っているように思う。一種の理想系であるのかもしれない。



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