チベット人のあるべき姿について (正義とは何か 補追1)

前回のシリーズエントリー「正義とは何か」に関連して、チベットの人たちの「あるべき姿」を考えていたところ、素晴らしい記事を見つけたので紹介する。 

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この陳思氏のチベット問題に触れられている記事の中で、チベット人のあるべき姿を考える際に、とても参考になる記述がある。


「大多数のチベット人はまず自分を中国国民だと考え、その次にはじめてチベット人だと考えている。
 だから、彼らの心が求めているのは、決して独立ではない。」

「大多数の人は実のところ「独立」が何を意味するのかよくわかっていない。彼らは独立したら、自分たちの生活ができて、差別や辱めを受けなくてもすむと感じている。」


 「チベット人の習慣は我々と異なり、たいていある程度お金がたまったらそれで止めてしまう。生活できればいいという考えだ。」

「また、人によってはある程度稼いで、縁があって活仏と知り合って人生の道理を悟ったら、すぐに財産を喜捨して、最低生活を維持できるだけしか残さない。したがって、彼らは全く内地商人と競争にならず、急速に周縁化されている。」


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彼らにとって、「自分達の生活」とは、縁があって活仏と知り合って人生の道理を悟ることが第一であって、その他財産などというものは二の次、三の次。そんな生活をすることが望み。

このような欲望から遠く離れた人生こそが「あるべき姿」とする民族にとって、活仏や精神文化を守ることは第一の正義。

いくら鉄道を通し、経済的資本投下をしたとしても殆ど意味を成さない。それよりも彼らの精神文化の支えとなる、ダライラマ制を維持し、寺院を守り、僧侶に布施することのほうがずっと大切。

確かにこれがチベット人が望むあるべき姿であれば、ダライラマ14世睨下の云われる、「高度な自治」で十分達成できるだろう。しかし中国共産党政府はそれを破壊し、自らの思想統制の下に入れようとしている。

チベットのあるべき姿と中共のあるべき姿。二つの正義が衝突してる。


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ダライラマ14世睨下がインドへ亡命してから、はや49年になろうかというチベットの現実をみるにつけ、中国との対話による高度な自治の獲得なんて、そんな悠長なことは言ってられない。独立しない限り絶対無理なのだ、と一部の急進的チベット人が考えたとしてもおかしくはない。

それがまた問題解決を難しくしている面もある。このままでは、ダライラマ14世睨下亡き後の将来に、かれら急進派と中共政府がより激しく衝突するであろうことは容易に予想される。

中国としては、ダライラマ14世睨下が没するのを待ち、自分達の意のままになるパンチェンラマを通じて、チベット支配の強化を目論んでいるのだろう。

当然そのようなことは、ダライラマ14世睨下も承知。件の記事では更にこのような重要な記述がある。

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「ダライラマが1959年にインドに行ってから、何回かの海外視察のあと、このチベットの最高指導者は民主主義が良いと感じ、必ず民主主義を実現しようと決めた。」

「そこで、歴史上はじめて君主が強制的に民主主義改革を行うという状況が出現した。上から下への民主主義の実行である。90パーセントのチベット人はこれを理解できず、投票においても反対した。」

「かれらはダライラマの権威は他をもっては代えがたく、他の人が彼らのリーダーになることは受け入れられないと考えている。しかし、ダライラマは民主主義が人民にとって良いといって譲らず、不退転の決意で古いガシャ制政治体制を解散し、議会制の内閣政府を組織した。」




ダライラマ14世睨下は自分の在世中にチベットの民主化を望まれ、そのように行動している。これは物凄い精神的改革。

チベット人の持っている「あるべき姿」をある意味において、修正することを意味するから。

チベット人のあるべき姿という正義は、中国の正義と衝突しているだけではなく、実はダライラマ14世睨下から、自らのあるべき姿の修正を要求されている。

チベットも精神的改革の最中にある。


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