理想国家(正義とは何か 最終回)

民族自決権は、1789年のフランス人権宣言において、その思想的根拠を明確に表明しているとされ、第一次世界大戦の際に、アメリカのウィルソン大統領が十四か条の平和原則で提唱したのがその始まり。 第二次世界大戦後には、国連憲章の中で人民自決の尊重が盛り込まれ、今では広く認められている。

この民族自決という問題は、民族としてのあるべき姿に差異があるが故に起こる問題だと捉えることもできる。縁起の縦糸の色が民族ごとにそれぞれ違っているということ。

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人権が修行論的な正義の社会、ノモスとあるべき姿が一致してゆくような社会の中にあるとき、その民族間のあるべき姿の差は無視できないものとなる。それを更に束ねようとすると、民族別に異なっているあるべき姿のさらに上位概念となる、普遍的価値観、完全に純粋な意味での自然の法(ピュシス)を持ってこなくちゃいけなくなる。

アメリカのような多民族国家では、民族間のあるべき姿の差が当然あって、縁起の縦糸はそれぞれ違う色になっている。それを束ねるために、自由と平等という価値観を普遍的価値観として国家法にして、縁起の横糸で束ねている。

しかも、聖なる個人的価値観と俗なる社会的価値観を分離して、縁起のレイヤーでいう上位レイヤーの横糸だけでどうにか束ねているような状態。縁起の縦糸にはあまり触れていないから、民族別のあるべき姿の差はそのまま手付かずで残されている。

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日本は原則単一民族で、価値観も建て増し構造をもつ聖も俗も分離していない国家。縁起の織物でみれば、上位レイヤーも下位レイヤーも縦糸も横糸も、殆ど同じ十八色のより糸で紡がれている。

しかもノモスとあるべき姿を一致させる前提となる性善説が伝統として価値観の根底にあるから、国家法から日本社会をみた場合でも、極めて修行論的な正義、ノモスとあるべき姿がきわめて一致している国家だといえる。

ただ、そのような性善説を根底にもつ法の支配する国自身はとても素晴らしいものではあるけれど、周辺の国々すべてがそうであるとは限らない。

ノモスとあるべき姿が一致していない国もあれば、多民族国家のように、あるべき姿そのものが民族別に異なったりしている場合もあるし、あるべき姿そのものに神が介在しない無神論の国さえある。

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国内を統べる法としては、性善説でよいかもしれないけれど、対外外交的には隣接国の性格をよく見定めて対処する必要は当然ある。自分から攻撃することはなくても相手に攻撃させないだけの備えは必要。それは智慧にあたる部分。

国家としての正義を決める場合、それを規定する根拠には、神または自然の法は介在すべきであり、また同時に人間が仏神にもなりうる存在とみて国家建設をするときに、国家の正義は最大の力を発揮する。

その時にあらわれる正義は修行論的な正義構造を持ち、国民全てが一定の規範の中であるべき姿・理想の姿に向かってゆく理想国家でもあるのだ。

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参考文献:世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち (講談社プラスアルファ文庫) 副島 隆彦 (著)
       ヨーロッパ思想入門 (岩波ジュニア新書) 岩田 靖夫 (著)