あるべき姿と民族自決(正義とは何か その13)

国家としての法律を決める時には、前にも触れたとおり、性悪説的に人間をみればみるほど、罰則規定を強化して、ある意味、恐怖による統制を下敷きにした社会が出来上がるし、性善説的にみればみるほど、罰則はより少なく、規制がより少ない自然に任せるような社会になってゆくもの。

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これは、国民からみても同じであって、国家を性悪説でみればみるほど、国は悪いことをしているに違いないから、国のいうことに従う必要はないと脱法ばかり考えるか、国はいちいち個人を規制して口をだすべきではない、政府などないほうが良いのだ、と考えるようになる。

こうした考えの人々がいくら集まったとしても、もともとの考えがバラバラでかつ権力を無視するから、そんな国家はとても脆くて、なにかの拍子にすぐ崩壊することになる。自力というよりは、むしろ自我力に近いのかもしれない。

また、国家を性善説でみると、国の行うことは全て国民のためということになるから、基本的に尊法精神が生まれ、国家秩序は保たれる。その反面、なんでも国家に頼りがちになって、国民主体の改革の力が失われてゆくこともある。

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[Asagi's photo]より


小さな政府というものの利点は、もちろん無駄を省いて行政の効率を上げるというのもあるけれど、性悪的にみれば、国家が悪事を働く余地を減らすことになるし、性善的にみれば、国家が口出しできる範囲が狭くなるから、国家に頼らず国民の善性に依拠した自立自尊の社会を作るしかなくなるということを意味してる。

国家理念や国家法を考えたとき、ノモスと国家を形作る民族のあるべき姿が一致すればするほど法の尊守意識が高まる。だから、国の立場からいえば、そのような法を制定したほうが国民が団結しやすく統治しやすい。畢竟そんな法を求めることになる。

ここで重要になるのが民族自決の問題。


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