人の世を治めるのは神という立場は人間に対して、神の教えという「戒め」と国家法で規定される「律法」という二重の規範を求めることになる。
そのとき、国家法が自然の法、または神の教えが根拠にある場合とない場合とでは、規範に対する尊守意識が異なってくる。
神の教えを根拠に持つノモスは「戒め」としてのインフォーマルな規範と合致するから、宗教的戒めを守ることがそのままノモスを守ることに繋がる。宗教的意識・信仰が強くなればなるほど自然とノモスを守る行動をする。
それに対して、神の教えを根拠に持たない人が決めた、人の世の法(実定法)は、特にそれが宗教的戒めと合致しない場合には、刑罰を受けたくないという自己保身に依存した尊法意識に社会秩序をゆだねることになる。
だから無神論であるとか、ノモスを自然の法(ピュシス)とまったく切り離した考えに基づいた法を適用する国家は、その社会統制力はより脆いものになってしまう。
ある国家や文明圏においてその法律(ノモス)がその国の歴史や伝統・文化といったあるべき姿を体現した「習わし」や宗教的戒律と一致すればするほど、その法律(ノモス)は社会的実効力を宿した有効なものになる。
そのとき大切なことは、人間という存在を修行の果てに神になれるとみるか、逆立ちしてもそんなの絶対に無理と見るかという観点。
人間が神になれるかなれないかという視点は、人間を善なるものか、それとも悪なるものとしてみるかのウェートづけをしている。
人間が神になれるという立場は、人間が神なる属性を宿しているとみるから人間を善なるものととらえているし、人間は神にはなれないとみると、哀れな子羊として容易に悪に染まる存在になる。
前者は修行が成り立つけれど、後者に至っては、どんなに努力しても神様になれないのだから、修行そのものが意味のないものになってしまう。
国家をあるべき姿に無限に近付いていけるものにしようと願うなら、あるべき姿にあらしめる力が従属する関係、つまり自然法と自然権、人権の各々に修行論的な関係が成り立たなくちゃいけない。
そのためには、人間を善なるものと見るという前提が必要で、そうして初めて人間の自由意思において、一定の規範のもとにあるべき姿に向う社会を作ることができる。

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