自力と他力(正義とは何か その11)

あるべき姿である、神の理想、天の掟と、あらしめる力としての地上の正義。その地上の正義はあらしめる力をどのように規定するかと、どうやってそれらを広くあまねく地にいきわたらせるか、という3つの要素のどれを重要視するかで法に対する考え方が変わってくる。

自然法・自然権・人権の差異がそれ。

自然法は、事物の自然本性から導き出される普遍で不変な合理的法。
自然権は、自然法を地に顕すための最低限必要な条件。
人権は、ディオゲネスにはなれない庶民でも自然法に向かえるために必要な手当て。

自然法派、自然権派、人権派とか色々あるけれど、要は人間社会を「あるべき姿」にする為に何を重点的に行えばいいかという見解の差。

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[器・UTUWA&陶芸blog]より



ここで、自然法、天の掟を、仮に仏陀の説いた法(ダルマ)と置き換えてみると、自然法・自然権・人権はそれぞれ修行論としての関係が成り立つように思える。

つまり、これらをそれぞれ仏教的な悟りと修行の関係にあてはめると次のようにならないだろうか。


天の掟、自然の法 (自然法)・・・ 仏法
あらしめる力の条件(自然権)・・・ 人間は悟りえる存在であるという宣言
あらしめる力の普及(人権) ・・・ 衆生再度としての仏法流布 


まず自然の法(自然法)があって、人間は修行の果てに仏陀になりえる存在であると宣言し(自然権)、実際に衆生を救済する布教を行う(人権)という構図。

本来すべての人間を悟りの悲願に導くために、仏の教えがあり、さらにすべての人々にその法門が開かれていることを示すための布教手段としての人権があるということ。

ここで仏教の教えが自然の法とイコールである、と断定するつもりは決してないけれど、仏の教えは、十戒などのように神からくだされた掟というよりは、仏陀が悟って得た、人間や世界を貫く法則という位置づけ。だから仏教の教えは天の掟、自然の法により近い性格を持っていることになる。

たとえば、仏教の説く、諸行無常や因果応報の教えなんかは、教えというよりは法則として考えるほうが適切と思えるほどの因果律を示してる。


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仏教の教えが果たしてどこまで自然の法に迫っているのか、また自然の法全体に対してどれだけの部分を示し得ているのかどうかは分からない。

だけど仏教の教えが、天の掟、自然の法則を示しているのであれば、もちろんその教え(法則)は永遠不変であるから、教えそのものが時代に適合しなくなって救済力が失われるということはないはず。「この世のあらゆるものはすべて移ろい行く」という諸行無常の教え(法則)などは、おそらくは仏陀が生まれる遥か以前から存在し、今もなお存在してる。

もしも何がしかの宗教的教えが、たとえばイスラム教的な、戒律の固まりで人の自由意思の範囲を規定する場合は、その戒律が時代や環境にそぐわなければ不都合なことが起こることになる。豚肉しか食べられない国に行ったムスリムは飢えてしまう。もっとも他国へ旅をしている場合は戒律を必ずしも守らなくてもよいという規範があるようではあるけれど。

あるべき姿を求める人々にとって、人権思想はあくまでも「あるべき姿」(悟り)へ向かう入口に立つための他力(方便)であって、そこから実際にあるべき姿(悟り)を得るかどうかは本人の努力精進、自力次第。

これはそのまま機会平等(他力)と結果を公平に処する(自力によって得る悟り)というロールズの正義論にかなりの程度シンクロしてる。


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