自然権と人権(正義とは何か その8)


あるべき姿を有らしめるための法律、ノモスを人間の性質を基準に決めるとすると、最低限必要になるものは、人間ひとりひとりがそれぞれ理想とするなんらかの「あるべき姿」に向かえる環境を保証しないといけない。

ひらたくいえば、精神の自由をどうやって確保していくかということ。

画像



精神が自由であり続けるためには、まず精神の主体が生存できて、他の何者にもその考えが制約されないことが必要になる。

個人が「あるべき姿」に向かうときに絶対に必要なものは精神の自由であるけれど、それが如何なる条件において満たされるか、という見解によって、その保証すべき権利も変わってくる。

たとえば、人間はみんなディオゲネスのような人たちなのだと思えば、国家は生命の保証と、1個の樽と、あとは日当たりのいい場所さえ提供すればいい。

だけど人間は貴族やセレブのように、なんでもかんでも周りがやってくれる環境でなければ、精神の自由なんかは到底持てないのだ、と考えれば、すべからくそのような環境を提供しなければならなくなる。今ではとうの昔になくなった奴隷制も、奴隷が食糧と富を確保するための労働を代わりにやってくれたからこそ、貴族が精神の自由を確保することができたとも言える。


画像



両者は極端な例だけど、ディオゲネスですら最低限必要になるものはといえば、生命の保障と樽。つまり生存権と所有権。これが最低ライン。この最低ラインを人間が生まれながらにして持っている、としたのがルソー。だから国家なんかの権力がこれを侵害することは決してあってはならない、自由と平等は人間が生まれながらに持っている自然な権利という思想になった。

自然権が保障した最低限のものは、ほとんどディオゲネスのレベルと変わらない。もちろん樽じゃなくて立派な屋敷なり金塊なりを所有してもいいけれど、その根本はどこまでも精神の自由を確保するための条件であるということ。

精神の自由を確保するための最低条件であったはずの生存権と所有権。だけど、精神の自由が、いつの間にか欲望の自由にすりかわってしまって、声高にあれもよこせ、これもよこせと、国家にあれこれ求めていくようになってしまうのも、また人の世の常。

日本国憲法で所有権を定義しているとされる第25条では、『すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。』となっているけれど、この「最低限度の生活」というものをどう考えるかによって、ディオゲネスになるか、セレブになるか分かれてくる。

画像