「自然状態」においても人々は規律正しく、折り目ただしく生活すると思えば、ちまちまと法律を規定する必要はなくなる。逆に欲望に身を任せて好き勝手すると思えば、それを抑止する物理的・心理的力とその基準となる法律を作らなきゃいけない。
あるべき姿を自然の法・神の理想だと捉えれば、その社会の法律、ノモスはあるべき姿を有らしめるために必要な取り決め、ということになる。
そのためには、人間は社会の中で何を志向して生き、行動するのかを考えなくちゃいけない。
自然状態での人々の行動に対する見解を善悪という尺度で大まかに区分すると3つに大別できると思う。
それらは、ホッブス、ロック、ルソーの思想にみることができる。
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人間の現在の生存は、現に今生きていることによって保証されるのに対して、未来の生存はいまだ明らかにされていないから保証されることがない。個人が生存できるかできないかは、常に他者との力関係による相対的なもの。だから、未来の生存を確保するための人の欲望は際限がない。このような未来の生存を確保するために、暴力などの積極的な手段に訴えることは、自然権として善悪以前に肯定される。
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あるべき姿(自然法)は、自然状態からの脱出を命ずる理性ではなくて、自然状態において行われるべき正しい姿である。自然権は、自然状態におけるあるべき姿(自然法)が保障する各人の正しい取り分。だから他人に十分な良い物(goods)を残す限りにおいて、人は好きなように収穫して良い。
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自然状態では人間は真に自由であったし、自然権も調和して保たれている。だけど、悪い人間はいるもので、他人の自然権を掠め取り、自由を奪ってしまう。だから、一見、自然状態は自足的・持続的で理想的と思えるのだけど、実は他人が権利を奪い取れてしまう脆弱なもの。 よって自由の回復は、単純な自然に還ることでは成し遂げられなくて、社会状態という「第二の自然」に入ることでしか得られない。
ホッブスは、あるべき姿を云々する前に、まず「生きて」いなければ始まらないだろう、当然みんなそれを欲するし、そのためには暴力に訴えるのも止むを得ない、という考えだし、ロックは、いやいや放っておいても人はあるべき姿に向かう存在なのだから、他人の迷惑にならない限り自由にしていいという考え。
ルソーは、原則、人間はあるべき姿に向かうのだけど、中には悪い奴もいて横取りしてしまうこともあるから、なんらかの規制をして、一人ひとりに鉄鎖をはめるしかないという考え。
ホッブスが性悪説的に人間を見ているのに大して、ロックは性善説、ルソーは善悪双方の折衷型といえようか。
性悪説的に人間をみればみるほど、罰則規定を強化して、ある意味、恐怖による統制を下敷きにした社会が出来上がるし、性善説的にみればみるほど、罰則はより少なく、規制がより少ない自然に任せるような社会になってゆく。

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