たとえば神の教えが賽を穿ち微に渡り、それこそ箸の上げ下ろしまで規定するくらいになったとすると、人間の自由裁量の余地はどんどんなくなってゆく。
人間は神の教えに従いさえすればよいから、ある意味、とても楽ではあるけれど、そこに人間の自由意思が存在する余地はない。
宗教的にそういった規定が最も厳格なのは、おそらくイスラム教。イスラム教はコーランから始まり、スンナ、イジュマー、キヤースと、人の行動規範において、なになにすべきから、守るべき教えの優先順位まで事細かに規定している。
アラーの教え、預言者の慣行、イスラム法学者の合意やその応用が人間をガチガチに縛っている。だから、もしイスラムの正義が変転することがあるとするならば、新・マホメットたる新しい預言者がアラーの言葉を授かることによってしか変更することは難しい。
同じことはキリスト教にもいえるのだけれど、キリスト教は中世にトマス・アキナスによって、神の法に沿ったもののみが法であるとしながらも、人間理性によって自然の法は発見できるとしたから、人間社会の法に対してある程度の自由裁量が認められた。
さらに宗教改革を通じて、「聖」と「俗」を分離したことで、ますます人間社会における法の自由性が確保された。ノモスを聖なる世界から分離したことで、正義の変転に対してより柔軟に対応できるようになった。
尤も、イスラム教とて、コーラン、スンナに続く、第三法源であるイジュマーは、イスラム法学者によるアラーの教えの法解釈だし、第四法源であるキヤースに至っては、イスラム法学者たちが、コーランの教えにない事柄に対して、類似した事項から三段論法によって導き出すものだから、もはや人間理性によるアラーの教えの探索・発見といえる。
だけど、イスラム世界は今だ「聖」と「俗」が分離していない社会。だから柔軟性という意味においては、キリスト教社会に及ばない。その代り、建前上は、社会の隅々にまで、アラーの教えに従っているということになる。
正義は時代とともに変転するもの。時にそれは時代精神とも呼ばれる。現代に通用している時代精神はフランス革命に端を発する「自由と平等」。
人間理性で神の理想を発見できるとする考えは、ともすれば、人間理性に神に等しき権限を与えるがゆえに、世の中を人間の意志によって作り変えることを肯定させる。
ともすれば、力ずくでも神の正義を実現しようとする、いわゆる「過激派」にも格好の口実を与えることになった。人間理性によって発見したこの神の理想・正義は、すみやかに実現されるべきである、たとえ革命を起してでも、と。
それに対して、預言者に依存することもなく、神の理想、自然の法は人間には到底認識できないのだから、人間社会は自然の流れに身を任せるべきと考えた場合は、その正義の実現は実にゆるやかなものになる。
時代が移り変わってからようやくあれが神の手だったのか、とわかる立場だから急進的な革命が起こる余地はとても少ない。

この記事へのコメント
日比野
「天啓の諸文明(オリエント系)」・「内的開悟の諸文明(インド系)」ですか、いつか機会がありましたら、内容を是非お聞かせくださいませ。とても面白そうなテーマですね^^;
美月
こちらで時々考えている「天啓の諸文明(オリエント系)」・「内的開悟の諸文明(インド系)」とも微妙に道筋が交差するところがあって、特にこの回では、ヒントになりそうな「何か」をいっぱい頂きました。
(今はまだ、なかなかまとまった言葉で出てこなくて、ジタバタですが…)
シリーズ後半部も楽しみにしています。