それぞれがそれぞれのあるべき姿を正義としてる。
[Asagi's photo]より
あるべき姿として地に現れてくる自然の法(ピュシス)の根源が神にあるのであれば、神の数だけあるべき姿、正義が存在してもおかしくない。
あるべき姿というものを「神の理想」に置き換えた場合、あるべき姿がいくつあるのかいう疑問への答えは、時と共にその理想を変える「移り気の神」が天におわしますのか、または神はいくつも存在して、それぞれの神がそれぞれの理想を持っているかどちらか、または両方ということになる。
地上を見渡してみれば、それぞれの時代、それぞれの地域でそれぞれの正義があり、それらを奉じて人間社会が成り立っているから、神は複数存在するというのが実際のところなのかもしれない。
だけど、大切なことは、一神教であれ、多神教であれ、複数の「あるべき姿」が同時に示されているという事実。
[Asagi's photo]より
人類の進歩という観点からみれば、「あるべき姿」はひとつよりは複数あって、互いに切磋琢磨できたほうがいい。
もしも、「あるべき姿」が未来永劫、普遍の何かただひとつだけであるとしたら、人類社会はいずれはそちらに収斂していかなくてはならなくなるのだけど、なにかひとつに収斂した瞬間に人類の歴史は終結してしまう。それ以上変化もなければ進歩もない。究極の理想状態から変化したものは、堕落した姿になってしまう。
一神教であれ、多神教であれ、神が人類の進歩を望んでいるとするならば、神は永遠に「究極のあるべき姿」を人類に示さないのかもしれない。
だから、人類の歴史の中で正義とされたものの中身が次々と変転していったのも、なにかひとつの正義だけが真に正しい正義だというわけではなくて、神の理想に向かう過程の中で、いろいろな正義が人類の進歩の材料として現われているに過ぎないと捉えることもできる。
神は決して移り気なのではなくて、人類を導く方便として、様々な「正義」をその時代時代に合わせて地に下ろしているだけなのだ、と。
本当のところはわからないのだけれど、それもやっぱり神の思し召しなのかもしれない。

この記事へのコメント
爛漫な人
その根底にあるのは「人道」でしょう。
これもまた、国家や政治や主義を超える普遍的なものです。
中国もこれを機に「人道」を正視するようになってくれるといいですね。
中国の長い歴史を勉強した所感でいえば、賢哲たちが「仁・義」をいてきた反面、
中国人は歴史的に人間尊重という意味での人道に欠けるところがあります。
ま・批判が過ぎても何も生まないと思いますので、
中国が広義の意味での人道、人間尊重に目覚めることを期待しましょう。
話題ずれついでに。
わが浦和レッズは、Jリーグの過去を遡れば
「岡田に負けさせられた」という体験が少なくありません。
私などはスタジアムに行って主審が発表されたとき、
岡田の名を聞いた途端に「今日は負け試合だ」とあきらめます。
そう思うほどに彼の采配は偏っています。
サポーターの彼に対する積年の鬱憤は半端ではないのです。
リーグの関係者に叫びたい。「岡田をレッズ戦いに使うな!!」
日比野
大地震で、世論レベルでの流れが変わりそうな感じを受けています。業火リレーも3日間中止になったようです。5/15のエントリーでも述べましたが、被災者の方々が、チベットの方々と同じような境遇に置かれたが故に、ある意味相手の立場に立つという視点を強制的に持たされたようにも思います。
これを機会に、「人道」というものを考えるきっかけになれば、と願います。
浦和。。。やられましたね。G大阪絡みでは結構ありますね。。
前節は我がフロンターレも「誤審」をやられたわけですが。。
やれやれ。。です。