あるべき姿はいくつあるのか(正義とは何か その5)

今の地球上で「あるべき姿」とされているのは、ひとつというわけじゃない。自由主義、共産主義、イスラム社会など様々な主義主張を「あるべき姿」として、それぞれの国や地域で求め、適用している。

それぞれがそれぞれのあるべき姿を正義としてる。

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[Asagi's photo]より


あるべき姿として地に現れてくる自然の法(ピュシス)の根源が神にあるのであれば、神の数だけあるべき姿、正義が存在してもおかしくない。

あるべき姿というものを「神の理想」に置き換えた場合、あるべき姿がいくつあるのかいう疑問への答えは、時と共にその理想を変える「移り気の神」が天におわしますのか、または神はいくつも存在して、それぞれの神がそれぞれの理想を持っているかどちらか、または両方ということになる。

地上を見渡してみれば、それぞれの時代、それぞれの地域でそれぞれの正義があり、それらを奉じて人間社会が成り立っているから、神は複数存在するというのが実際のところなのかもしれない。

だけど、大切なことは、一神教であれ、多神教であれ、複数の「あるべき姿」が同時に示されているという事実。

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[Asagi's photo]より



人類の進歩という観点からみれば、「あるべき姿」はひとつよりは複数あって、互いに切磋琢磨できたほうがいい。

もしも、「あるべき姿」が未来永劫、普遍の何かただひとつだけであるとしたら、人類社会はいずれはそちらに収斂していかなくてはならなくなるのだけど、なにかひとつに収斂した瞬間に人類の歴史は終結してしまう。それ以上変化もなければ進歩もない。究極の理想状態から変化したものは、堕落した姿になってしまう。

一神教であれ、多神教であれ、神が人類の進歩を望んでいるとするならば、神は永遠に「究極のあるべき姿」を人類に示さないのかもしれない。

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だから、人類の歴史の中で正義とされたものの中身が次々と変転していったのも、なにかひとつの正義だけが真に正しい正義だというわけではなくて、神の理想に向かう過程の中で、いろいろな正義が人類の進歩の材料として現われているに過ぎないと捉えることもできる。

神は決して移り気なのではなくて、人類を導く方便として、様々な「正義」をその時代時代に合わせて地に下ろしているだけなのだ、と。

本当のところはわからないのだけれど、それもやっぱり神の思し召しなのかもしれない。


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