あるべき姿をどう認識するか(正義とは何か その4)

果たして人間は、自然の法(ピュシス)を認識できるのだろうか。

もしも、人間は自然の法(ピュシス)など絶対に認識することはできない、と考えるのであれば、そこから先は二つの道にわかれることになる。ひとつは人間を半ば超えた存在、最高峰の認識を持った神の代弁者に語ってもらう道。もうひとつは自然の流れに身をゆだねる道。

前者は時に預言者や宗教家と呼ばれ、後者は神の見えざる手と呼ばれる。

預言者は神の声を預かる存在。天上から導きたる神の教えをそのまま人間社会の規範として地におろす。人間はそれに従って生きるべき存在。


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一方、自然の流れに身を任せるとは何かといえば、社会の決まりごとは、長い時の流れの篩にかけて残ってきたものだから、それに素直に従えばいいという考え。すなわち伝統や風習に、神の見えざる手が働いて、それらに自然の法が示されているという立場。神の手のひらの上で人間達が生きているという世界。

それとは別に、人間は自然の法(ピュシス)を認識できると考えるのであれば、人間は神の一部であるとするか、人間は神を認識するための、なんらかの道具を持っていると規定する必要が出てくる。

トマス・アキナスは真の道徳・正義についての原則が存在し、それは神に由来するものの、人間が理性で発見できるとした。人間理性が自然の法(ピュシス)を発見する道具である、と。

もともと人間が作ったものではないものを人間が認識できるためには、観察と思弁は欠かせない。自然を観察できなければ、対象データをそろえられないし、思弁がなければ、自然の中の法則を発見できない。だから理性が必要になる。


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人間が神の教えに基づいた、なんらかの理想社会を設定し、それを目指してゆく場合、その「あるべき姿」がどういったものであるかは、その神の教えの性格や民族の歴史、伝統の制約を受けることになる。

どんな神の教えとて、教えが説かれるときは、その時代、その場にいる人を真っ先に救う。だからその地域の風土や慣習も踏まえた上で、その場にいる人が理解でき、納得できる教えでなくちゃいけない。

イスラム教が豚肉を食べるのを禁止しているのは、豚は雑食であり、人の食べるものと共通の範囲を食べるから、砂漠で生き抜くためには、同じ食べ物をわけあたえなければならない豚はぜいたく品として禁じたという説もある。

自然の法(ピュシス)の内容を神に求める場合であっても、神の教えがいったん地に降りたあとは、教えが土着化するに従って、地上の伝統や風習の中にそれらが溶け込んでゆくもの。

神の教えに基づいた社会も、神の見えざる手が働く社会も、どちらの社会にも神が介在してることに変わりはない。


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