だから、人間や国が存在して、その社会を秩序作る決まり事(ノモス)があったとしても、依然として自然の法(ピュシス)は存在するし、何の制約を受けることもない。
自然の法(ピュシス)は自然の中にも、個々の心の中にも存在して、それらが「掟」となるほどに普遍的なもの。人として自然な姿、あるべき姿。
ノモスはやってはいけないことを取り締まる。社会秩序を守るために、これこれはしてはいけないとか、これこれの場合はこう分ける、などと人々の間の合議によって取り決めをする。
このとき、それらの取り決めがピュシスである「自然の法」に適っている場合、そのノモスは「自然の法」を社会に投影した決まり事になる。ノモスの根拠はそのまま自然の法(ピュシス)にある。
だけど、ノモスと自然の法(ピュシス)が互いに相反したときに、ノモスの根拠は何であるのか、はたしてそのノモスは法として有効なのか、という問題が次に起こってくる。
正義を規定するところの「あるべき姿」は、自然の中の真理の内にあると考えるか、人々の合議の中にあると考えるかの違い。
紀元前5-4世紀のソフィスト達はノモスとは自己利益に根ざした人為的に作られた規制の形式であり、自然の法(ピュシス)に逆らうものと考えた。後に功利主義と言い換えられるところの自己利益にノモスの根拠があるとした。
それに対して、プラトンは、普遍な知を表す思考、それ自身永遠に同一でありつづける思考の果てに見いだせるイデアにその根拠があるとした。更にアリストテレスはプラトンのイデア論を自然概念に結びつけ、人間も自然の一部なのだから当然、自然の秩序に規律されると主張した。

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