ピュシスとノモス(正義とは何か その1)

正義・人権について考えてみたい。ただし、正義という概念については、過去様々な諸賢にて議論されているテーマでもあり、正直、筆者には荷が重いことは十分承知している。それでもなお、思索を試みるのは、ひとえにチベット問題を契機として、人権や正義とは何かという疑問が湧いてきたためである。

今回の正義をテーマとするシリーズエントリーは、筆者的には試論の位置づけであり、諸兄の御指摘、御指導を仰ぎながら再度、再々度、修正・訂正・加筆を加えていきたいと思う。

全14回シリーズでエントリーする。


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正義についてWikipediaではこう説明されている。


『正義とは、各人に各人のものを配分すること、あるいは、一旦崩されたあるべき状態を回復すること、あるいは、何かを交換するにあたってそれが等価交換になるようにするという理念を意味する。』


各人に対して、何がしかのあるべき状態があって、それを配分して保たれた状態のことを正義と定義している。

正義は「あるべき姿」とそれらが「保たれる」ことの二つが同時に成り立って始めて成立するということ。

そこでまず、「あるべき姿」とは何かについてまず考えてみたい。


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[Asagi's photo]より



「つまり、正義とは自分が住んでいる国の決まり(ノモス)を犯さないということである。したがって、人間は、目撃者のいる場では法(ノモス)を大いに尊重し、目撃者がいない自分一人だけの場では、自然(ピュシス)のそれを尊重するようにすれば、正義を最も自分のためになるように活用することになろう。なぜなら、法の上の事柄は後に勝手に定められたものであるが、自然的な事柄は、変更できない必然的なものだからである。」


ギリシャはソフィストの時代に活躍したアンティポンの言葉。

当時のギリシャでは、ピュシス(自然の法)とノモス(慣習、polisの法)の議論があった。

自然の法(ピュシス)は自然の中に流れる掟。人がつくったものではなく、人智の及ばない、永遠に変わらないもの。

ノモスは法であり、規範。人が人為的につくったもの。安定感がなく、その場や時代に応じて新しい法に変わる。人間の力でいかようにも変更可能なもの。


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