智慧を蓄える(コミュニケーションとは何か その7)

自分の感動した体験かなにかを他人に伝えるとき、それを共感してもらえるかどうかは、伝え方にもよるのだけど、一番大きな要素は、伝えた相手も同じような体験をしているかどうか。

似通った経験をしている場合、その話題になると話は盛り上がるもの。だけどそういった似た経験であっても、そのストライクゾーンは案外狭い。

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小さな子供を持つ母親同士の井戸端会議なんかでは、子育ての話なんかはよく出るだろうけれど、子供の性格や行動なんてひとりひとり違うから、子育てという限定された話題であっても、同じ経験にはならないこともある。

下の子の夜泣きが酷くて寝られない、なんて言ったとしても、聞いた相手の子供が夜泣きせずにぐっすり寝る子だったら、その経験がないから共感も湧きにくい。大変だね、と同情されることはあるにしても。

子育てのように、多くの人が体験するような事柄でさえ、共感のストライクゾーンが狭いのに、それが世相や高度な抽象概念なんかの話題になったらもっと狭くなる。針の穴を通すほどのコントロールがないとストライクにならない。

本人の意識の問題といったらそれまでだけど、その意識をどこに向けるかということ自体、相手の心の自治権に委ねられている事柄。外からは手が出せない。

針の穴を通すくらいの精密なコントロールを持つということは、投げたいところにきちんと投げ分けられるということ。さまざまな経験や学びを通して、話題や知識を沢山蓄えているということ。

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たしかに直に経験することに比べて、学びを通して得る知識は、体験することと比べて共感できるという意味では見劣りするかもしれない。体験して始めて分かる肌触りであるとか、感触を知識だけで掴むのは難しいから。

だけど、知識として知っているということは、仮想体験のデータベースを持っているということだから、相手の体験を理解する上では大きな力になる。

体験も知識も全く何もない事柄について、コミュニケーションを取ったとしても話の内容すら理解できなければ、その情報を分かち合うことさえできない。

そして、もっと重要なことは、学んだ知識を生きた知識、いわゆる智慧に転換していくこと。本当に理解したことは自分の言葉で一言ででも、何時間でも話すことができる。本当にその事象の本質を理解しているからできること。

たとえ相手の話の内容を自分が体験していなくて、知識としてしか知らないことだったとしても、その知識が智慧にまで高まっていれば、相手の話を智慧のレベルで共感することができる。

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この作業を経ていない知識は、「学ぶ」という行為をとても浅いもので終わらせてしまう。智慧にまで転換しない知識は、汎用性に乏しくて、他人に伝えたときにもそのストライクゾーンの狭さゆえに、相手の共感を呼び起こす可能性が低くなる。

智慧と呼ばれるものは、そんなに種類があるわけじゃない。物事の本質だから、表面的にはいろいろある事象の奥底に埋まっているのだけれど、その内容はたいがい同じだったりするもの。

長い年月の風雪に耐えてきた古典が、いったいどれくらい残っているかを考えてみれば、それは明らか。

だから、智慧にまで高まった知識は、その汎用性の広さから、相手の共感を呼ぶ可能性が高くなる。それは相手の智慧と共鳴している姿。

相手から伝えられた情報から、何かを学んで、それを智慧にまで高めて、自分の心の内にストックしてゆく。正思、正しく思うということは、本当はこういうことなのかもしれない。

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