学ぶということ(コミュニケーションとは何か その6)

透き通った心で、ありのままの姿を見つめようと努めることで、コミュニケーションにおける情報の減衰や変容は極限にまで減らすことができる。そうして始めて、相手が伝えたかった内容をストレートに心へ送り届けることができる。

そこから先は、己の心の領域。心で受け取ったものを如何に判断していくか。どういう意味づけをしていくか。

そこは完全にスタンドアロンな世界。外部からの何者も侵入できない自分だけの世界。

他人は自分の心を支配することはできない。それは人から学ぶため。

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自分の心に完全な自治権が与えられているということは、外から入ってきた情報を何者にも制約されず、自分だけの判断で、それらを取捨選択できることを意味してる。

だから、「学ぶ」という行為が可能になる。

もし自分の心が、これしか考えるなとか、思い浮かべるなとかいう具合に他者からコントロールされるのであれば、単なるあやつり人形であって主体性のかけらもない。そこには学ぶという行為が存在する余地はない。

このような世界では人は永遠に成長できない。それどころか、悪人に操られて犯罪を犯してしまうことだってあるかもしれない。ならば他者からコントロールされることによる害悪を回避するために一切のコミュニケーションを無くしたほうがいい。

自分の主体的な意思だけで、入ってきた外部情報に意味づけをし、取捨選択できるということは、実に素晴らしいこと。

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コミュニケーションにおいて、自分は相手に影響を与えることが可能であるけれど、最終決定権はどこまでも相手が持つ。互いの自主性は保障されている。

互いにコミュニケーションをとることで学び合うことができて、なおかつ自主性を失うことがない世界であってこそ、自分は自分の意思でどこまでも向上することができる。

だから、自分の心の完全な自治権が確立している限り、コミュニケーションそのものが人間の成長の可能性を約束している。

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