そこから先は、己の心の領域。心で受け取ったものを如何に判断していくか。どういう意味づけをしていくか。
そこは完全にスタンドアロンな世界。外部からの何者も侵入できない自分だけの世界。
他人は自分の心を支配することはできない。それは人から学ぶため。
自分の心に完全な自治権が与えられているということは、外から入ってきた情報を何者にも制約されず、自分だけの判断で、それらを取捨選択できることを意味してる。
だから、「学ぶ」という行為が可能になる。
もし自分の心が、これしか考えるなとか、思い浮かべるなとかいう具合に他者からコントロールされるのであれば、単なるあやつり人形であって主体性のかけらもない。そこには学ぶという行為が存在する余地はない。
このような世界では人は永遠に成長できない。それどころか、悪人に操られて犯罪を犯してしまうことだってあるかもしれない。ならば他者からコントロールされることによる害悪を回避するために一切のコミュニケーションを無くしたほうがいい。
自分の主体的な意思だけで、入ってきた外部情報に意味づけをし、取捨選択できるということは、実に素晴らしいこと。
コミュニケーションにおいて、自分は相手に影響を与えることが可能であるけれど、最終決定権はどこまでも相手が持つ。互いの自主性は保障されている。
互いにコミュニケーションをとることで学び合うことができて、なおかつ自主性を失うことがない世界であってこそ、自分は自分の意思でどこまでも向上することができる。
だから、自分の心の完全な自治権が確立している限り、コミュニケーションそのものが人間の成長の可能性を約束している。

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