理解と共感は別のもの。理解したあとの判断として、共感か、場合によっては拒否することもある。
コミュニケーションで得られるものは相互理解であって、相互信頼じゃない。相互信頼はずっと先。コミュニケーションで行われることは、情報の伝達のみであって、伝達された情報に対する価値判断は別に存在する。
自分が伝えたい何かがあって、自分からその情報をアウトプットして、相手がそれを検知して受信するまでがコミュニケーションの範疇。
その内容について良い悪いという評価を出す主体はあくまで相手。
[Asagi's photo]より
コミュニケートされた内容についての判断は100%相手の主観に委ねられる問題であって、こちらからは一切の干渉はできない。だけど往々にして人は、相手から好意的反応が返ってくることを期待してる。
しかも、好意的反応を貰って初めてコミュニケーションが出来たなんて、自分に都合良く考えたりもする。
自分が発した情報に対して、「好意的な反応」を期待する行為は、本当は自分ではコントロール不可能なもの。その成否はある意味博打と同じ。
にも関わらず、好意的反応が来た時だけ、相手とコミュニケーションできたと考え、否定的反応が返ってきたときにはコミュニケーションが成立しなかったと思ってしまう。
確かにコミュニケーションの原義であるラテン語の「communicatio(分かち合うこと)」に照らし合わせれば、自分の意見が受け入れられない状態というのは、ちっとも分かちあってないじゃないかとも思えるのだけど、分かちあったものは「自分の発した情報そのもの」であって、あなたに対する好意じゃない。
[Asagi's photo]より
尤も「好意的な反応」が返ってくる確率を上げる方法がないこともない。それは、自分と趣味嗜好や価値観が似ていると思われる人とだけコミュニケーションを取るという方法。
内輪の同好会的仲間とだけコミュニケーションを取れば、自分と同じような考えをしてくれるのだから、そのとおり、なんて手を叩いて共感してくれる。否定的反応が返ってくる確率はうんと低くなる。
たとえば、ネットなんかでの非営利な繋がりでは、仕事と違って個人の好みを行使する為のハードルがとても低い。好きな人とだけ付き合っても誰も文句は言わない。ネットの世界でいわゆるネット魚群が形成されやすい所以。
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