廓落胸襟 -かくらくきょうきん-

もう10年近く昔の話になるけれど、江戸博物館で開催された「勝海舟」展にいったことがある。私にとって、村上元三著「勝海舟」を始めて読んで以来、勝海舟(1823-1899)は、最も好きな幕末維新の人物のひとり。

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会場は休日ということもあって、盛況だった。特にどの年代がということもなく、老若男女を問わず会場に詰めかけていて、海舟の根強い人気がうかがわれた。70点以上の展示品は書状・日記の類を始めとし、衣類や海舟本人が使用していた望遠鏡など、通常は書籍・資料でしかみることのできないものが多く興味深かった。

見ているうちに、ふと若き日の海舟が筆写した日蘭辞典「ヅーフハルマ」の展示ブースで足をとめていた。膨大な枚数を筆写している。一冊およそ300頁余の冊子が十冊。計3000頁以上の分量。海舟の根気と熱意に驚かざるを得ない。

当時書物は大変高価であって、「ヅーフハルマ」は現在の金額に換算すると、約120万円にも相当したという。貧窮していた若き日の海舟には買える筈もない。年賦にしてでもと本屋に行くけれど、一足違いで赤城玄意という医者に買われてしまう。それでも海舟は諦めない。

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その足で赤城のもとを尋ね、「ヅーフハルマ」の借用を頼み込む。渋る赤城に対し、寝てる間だけという条件で借り受け、毎晩通い詰め、1年がかりで筆写をしてしまう。後年海舟はこの当時を振り返り、筆写しても仕官のあてもなにもなかったと述べているけれど、そのような状況においても黙々と努力を続ける姿勢と精神力が、激動の幕末維新を生き抜かせていった力になったのだろう。

海舟は一生涯を貫いて、努力研鑚を続けた。海舟は和歌や漢詩も作っているけれど、40歳になってから始めている。現在でいえば60歳ぐらいに相当しよう。まさに生涯学習といえる。

会場は書の展示が大半だったけれど、なかでも興味深かったのが、維新の三舟の書が並べて展示してあったこと。維新の三舟とは雅号に舟の文字をもつ人物を指し、勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の三人。

山岡鉄舟は江戸城無血開城のおり、海舟の使者として活躍した人物で、剣の達人。高橋泥舟は講武所教授等を歴任した槍術家であり、旧姓を山岡といい、山岡鉄舟の義兄にあたる人物。書には本人の人格が出るとはよく言われることだけれど、まさしくそのとうりと思った。

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山岡鉄舟の書は、剛毅・一路な書風で、観るものを圧倒する。高橋泥舟は柔らかで流麗である中に篤実な一面がある。海舟の書体は大らかでいて、隙がなく、また余計な飾りを一切なくした書風であると観じた。

海舟は能書家で知られているけれど、決して始めから書がうまかった訳じゃない。不断の修練を積み重ねた結果、揮毫を求められる程にまでになった。明治になって海舟は旧幕臣達に対して経済的な援助をおこなっているけれど、借金の依頼者に対して渡す金が無いときなどは、揮毫を書いて渡していたという。

一般に勝海舟は江戸無血開城を成し遂げ、敗軍の将として徳川幕府の幕を引いた人物として知られているけれど、私にはその成した仕事以上に、大義に生きる志と無我の心が海舟の真骨頂であったのだと思えてならない。

なぜかといえば、海舟の書体や残された文献どこからも、欲というものが感じられなかったから。

当時の維新の志士と呼ばれる人物はみなこうであったかも知れないけれど、「この世に生を受けるのは、その人生のなかでただひとつの大切なことを果たすべきであり、その余のものはどうでも良い」といった心境で生きていたのではなかったか、とさえ。

私は明治期になって海舟の詠んだ漢詩に、江戸を戦禍から救い、使命を果たした海舟の想いを見る。

 

     功無く 亦名も無く

     貴と栄とを 求めず

     国難 今己に了り

     飄然 身世 軽し

 

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