知るべきことと、知りたいことはその人の立場によって変わるもの。左翼の人は左の情報を好むだろうし、右翼の人はその反対。
政府は、国を維持して繁栄させるために、国民に知っておいて欲しいことを知ってほしいと思っているし、マスコミは権力が暴走しないように監視して、中にある真実を伝えたい。
それぞれがそれぞれの立場で、情報の発信と取捨選択している。だから本来はそういった性格の情報が世の中に飛び交っていることを皆が理解していることが望ましい。
更には、情報は主体的に自分で選び取るものであって、自分が発信した情報には自ら責任を負うのだ、という原則が各人に浸透していないと、あっという間に情報の洪水に流され、扇動されてしまう。
その情報を選びとったり、発信したりする根源にあるのは、個人としてはその人が持っている価値観だし、社会や国としてはその集団における「あるべき姿」ピュシスになる。
それを構築するのは、まず教育、その後は経験と学習。
日本には日本人としての「あるべき姿」があって、それを皆が共有することを是とするならば、そのような社会にしなければならないし、そのような社会を維持しないといけない。
ここで大切なのは、「告白の自由」の保障。さもないと、日本人の「あるべき姿」を是としない人を理解する機会を奪ってしまうことになりかねない。
自分はどうしても日本人としての「あるべき姿」を認めることができないのです、と「告白する自由」が保障されていなければ、その人は社会的に抹殺されてしまう。そうではなくて、日本人の「あるべき姿」を何故認められないのか、どういう姿があるべき姿だと思うのか、などと相互にコミュニケーションを取ることが保障されて始めて「あるべき姿」の変容可能性が保たれる。
今現在通用している「あるべき姿」が、未来永劫変わらない保障はないし、それでいいのかどうかも分からない。古代日本人が持っていた「あるべき姿」と現代日本人の「あるべき姿」は違っているかもしれない。
だから、今回の毎日問題は、報道の品質という面において企業としてのコンプライアンスが問われ、記事の内容において、日本人としてのあるべき姿である「穢れを祓う」という価値観を否定しているが故に、これほどの抗議を受けているのだと思う。
結果的に、毎日新聞社が倒産に追い込まれてしまう事もあるかもしれないけれど、今回の問題で確実に言えることは、少なくとも日本人としての「あるべき姿」を受け入れられない人がそこにいたということ。
だけど、いくら毎日新聞社が、日本人としての「あるべき姿」を受け入れられないからといって、日本人全員がそうだとは限らない。
だから、社会の公器としての大手マスコミが、今現在共有されている日本人としての「あるべき姿」を否定するのであれば、そうと宣言し、既存のあるべき姿を受け入れている人たちに配慮しないといけない。
たとえば、この意見は社としての独自意見であって、日本全体を代表するものではない、と宣言してから報道するとか、この論に対する意見を広く受け付け、オープンな議論を行うとか。
そうした「告白の自由」があって始めて、情報を受け取る側も、なぜそうなのかを問い、熟考し、互いにより良い「あるべき姿」を求めてゆくことができる。
グローバル時代を迎え、海外との交流が盛んになるにつれて、彼我の文化的・宗教的価値観の差に十分留意しながら、互いの理解促進の助けとなる報道を行うこと。それがグローバル化時代での報道のあり方だと思う。
マスコミは、自らの情報フィルターの性質を広く一般に宣言して、高度な見識を持って客観報道に努め、一般大衆は高度な情報リテラシーを身につけようと努めつつ、良心に恥じない情報選択を行う。
高い見識と高い民度。これがマスメディアとネットとの共存の鍵になる。
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