判断力の根源(毎日新聞問題について考える その5)

報道は、ニュース・出来事・事件・事故などを取材し、記事・番組・本を作成して広く公表・伝達する行為であり、言論の一種であると定義されている。

広く公表するだけなら情報伝達網さえあればいい。今ならネットや携帯メールでも十分な筈。だけど、報道を言論の一種だと定義すると別の面も考慮しないといけない。論説の部分がそれ。

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情報を分解すると、未加工の一次生データ(報)とそれに見識を加味した「情報」の二つに分かれる。

一次データは、現場に直接赴き、見聞した事象そのもの。これを他の人々に広く伝える場合には、紙媒体や電子媒体といった情報網で伝達すればよいのだけれど、ただ伝達するだけなら、五感に正確に訴えるという条件さえ満たせばいい。

尤も、一次データといっても、その人の立ち位置や主観によって一次データが変容したりノイズが載ったりすることもあるから、一次データだからといって100%客観的な情報とは限らない。

だから、その分メディアに立つ側は、なるべく客観的に全方位に事象を見て伝達しなければ、偏った印象を形づけることになりかねない。意図的にやると印象操作になる。報道する側は物凄く責任を負っている。

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正確な一次情報は現地に行きさえすれば良いというものじゃない。機密情報や政府内会合なんかで直接取材できないことなんていくらでもある。より正確な情報や隠された情報を取材するために、時には組織と戦ったりしなくちゃならないこともある。

マスコミは行政、立法、司法の三権を監視する、第四の権力としての役割も担っているから、時には民意を代弁したりするし、実際に権力と戦ったりもしている。

だけど、権力や組織との戦いは、民主化の度合いによってその程度は変わる。実際にはありえない話だけれど、たとえば政府の機密情報も含めて、100%情報開示された社会があったとしたら、マスコミが代わって報道する必要はなくなってしまう。

そんな社会における報道は、情報そのものを広めるよりも、その情報が如何なる意味を持つかという見識の方がより重要な意味を持つことになる。

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判断力の根源は、正確な情報と因果律に基づいた確定予測。正しい情報がなければ正しい判断が出来なくなるのは当然のこと。正しい情報があって、それが後にどんな影響を及ぼすかを見通して、その結論が導かれて始めて判断が可能となる。

人々への情報伝達媒体が多岐に渡るようになった現在では、情報伝達媒体の選択肢が増えたことで選択の自由を促し、結果、情報の民主化を促すことになる。

特に情報の双方向性と特徴とするネットが普及して、これまで情報を受け取る一方だったサイレントマジョリティは徐々に声を上げ始め、サイレントでなくなってきている。

だから、言論そのものは多くの人々によって吟味され、その結果や意見が目に見えるようになってきた。普通の情報なら誰でも知っている。本当に知りたいことは、真実と暴露と高い識見。

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