恥と穢れ(毎日新聞問題について考える その3)


「他のどこでもおそらく、タクシーの後部座席に落ちた輝く携帯電話や地下鉄のドアにもたれかかった誰のものか分からない傘、歩道に落とした札束は永遠に無くなってしまいます。・・・しかし、ここ東京では、これらの品々やその他何千もの落し物は、警視庁の遺失物取扱所に行くまでに多分見つかるでしょう。」

ニューヨークタイムスの「Never Lost, but Found Daily: Japanese Honesty」の記事からの抜粋。

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先日、届けられた財布の中に偽造の外国人登録証が入っていたことから逮捕された中国人がいたけれど、日本の中には公徳心が文化として根付いている。海外からみても拾ったものは届けるという日本の美徳は驚きを持って受け取られるようだ。

日本は「恥の文化」だと良く言われるけれど、人目をいつも気にしていて、それで善悪を測るようなところがある。その奥には「穢れ」を嫌う思想があって、自らが穢れているかいないかということを、他人の反応を通じて推し量っている。

「穢れる」ことは厭うべきこと。嘘や盗みは「恥ずべき」こと。そんな考えが日本人の中にはある。清らかさを外にも、自分の心の内にも求めるから。

モラルを正すということは、何が正しいのかが分かっていることが前提。それは究極のところ、国家・民族としての「あるべき姿」ピュシスに従うというところに行き着く。

モラルはその社会で一般的に通用する道徳律だけど、当然時代や価値観の変容によっても影響を受ける。だけどその時代で通用しているモラルからかけ離れた考えは軋轢を生み、モラルを破壊するものと受け取られる。

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今回の毎日事件は「穢れを祓う」という、日本人一般に広く浸透している日本文化・日本的価値観に対する破壊行為だと受け止められているように思う。だから、記事が書かれた意図や目的を殊更に追求することなく、記事内容そのものに対して敏感に反応しているのではないか。あの記事こそ日本人を穢している元凶なのだ、と。

もちろん、一部に見られるマスコミに対する不信感や、不二家、吉兆などで企業モラルを散々叩いたくせに自分のことは知らん振りという、ダブルスタンダードは許せないという感情的なものもあるだろう。

日本の場合は、昨今崩れてきたとはいえ日本人としての「あるべき姿」というものが社会に根付いていて、かつ均質性が高い国民だから、一旦火が点くと止められないところがある。特に「穢れを祓う」という日本人なら誰でも標準装備しているであろう価値観を攻撃したのだから、ほぼ全ての日本人の心を傷つけた可能性がある。

今回の記事に対する抗議行動は、日本人の心の奥の院に踏み込んでしまったが故に、一過性のものでは終わらないかもしれない。

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